阪神・淡路大震災が起こった時真っ先に連絡をくれた プロゴルファー今昔物語〜中嶋常幸編【1】

朝、夢うつつだった。醒めているような、まだ寝ているような-。突然、下から突き上がった。今度は左右に揺れ始めた。テレビが飛んできた。本箱が倒れてきた。布団をかぶり耐えた。
「地震だ」-。

揺れが収まると外に飛び出した。幸いに家族3人は無事だった。しかし、玄関の扉は数メートル飛んで門にぶら下がり、通し柱が根元から折れていた。後日、私の自宅は全壊と認定されて取り壊された。

1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が起こった。私が住んでいた西宮市の東部は、まだ被害は少ないほうだったが、それでも地面の揺れはこれまでに経験したことのない、とてつもなく激しいものだった。

断続的に余震にも見舞われる中、自宅の電話が突然鳴った。奇跡的に電話が生きていたのだ。受話器を上げると「甲斐さん、大丈夫か!」と大きな声がした。

「中嶋だよ。よかった。よかった。無事でよかった」中嶋常幸が心配して連絡をくれたのだ。

中嶋とは21歳も年が離れているが、なぜか気が合って親しく付き合ってきた。彼は実に誠実な男であり、私は偉大なプロゴルファーとしてだけでなく、1人の人間としても、とても尊敬していた。

中嶋がプロ入りした1970年代半ば、大阪で若手プロの登竜門ともいえる「ヤングライオンズ」というトーナメントが開催されていた。中嶋といえば、父・巌氏のスパルタ教育が有名で、日本アマのタイトルを引っ下げて鳴り物入りでプロ入りしてきた彼のプレーに、我々メディアも大いに注目していた。

76年に行われたこの大会で、中嶋は期待に応えてプロ初優勝を飾った。優勝原稿を書き終えてコースを引き上げようとしたとき、私はクラブハウスの公衆電話で話をしている中嶋を見つけた。どうやら父に勝利を報告しているようだった。小さい大会とはいえプロ初勝利だ。その後姿には喜びがあふれていた。

私は思わず声をかけて祝福した。これをきっかけに中嶋との付き合いが始まったのである。付き合えば付き合うほど、いい男だった。そして、彼が関西に来るたびに合うようになった。

(つづく)

WHO‘S WHO
中嶋 常幸(なかじま・つねゆき)1954年10月20日、群馬県出身。父・巌氏の英才教育の下、10歳からゴルフを始め、73年に日本アマを18歳で制覇。樹徳高を経て75年にプロ入り。ツアー通算48勝を挙げ、賞金王に4度輝く。85年に史上初の年間獲得賞金1億円越えを達成。シニアツアーでも通算5勝。180センチ、85キロ。

【2015年9月30日にデイリースポーツに掲載された記事を引用】