北海道土人通語
古ツヽに
かさるころもや
蝦夷にしき
差摩重
北海道ノ土人ハ、學門ナク、文字ナク、智識ナシ、故ニ其言語ヤ野鄙、僅カニ一局部ノ外ニ通セズト雖モ、其間又自ラ三種ノ別アルヲ覺フ、日ク樺太語、曰ク沙流語、曰ク十勝語是レナリ、抑モ樺太語ハ千嶋交換ノ際、札幌郡對雁村ニ移住シタル土人ノ間ニ存スルモノナリト雖トモ、今ヤ內地人ニ感化セラレテ其趣ヲ改ムル少カラズ、且沙流郡平取村ハ往時酋長ノ在ル所ニシテ、土人界ノ龍動タリ、故ニ自然本地ニ往來シテ、之レガ言語動作ヲ究メ、又之ヲ世ニ公ニセルモノアルノミナラズ、是等土人ハ常ニ內地人ニ接スル多キヲ以テ、槪子邦語ニ通セザルナキガ如シト雖トモ、獨リ十勝國ハ沃野綿亘多望ノ地タルニモ拘ラズ、之ヲ研究シテ廣ク傳フルノ書アルナク、且本地ノ土人ハ內地人ニ接スル極メテ少ナキヲ以テ、未ダ能ク邦語ヲ解セザルモノアルヲ免レズ、故ニ今之ヲ天地、人事、身体、飮食、物名、動植物、數、雜事ノ八門ニ分テ其梗槪ヲ示スヘシト雖トモ、其間自ラ土人界一般ニ通スルノ語亦少カラサル可シ、ソハ之ヲ敢テセザレハ、實際上不都合ヲ釀スルアルヲ以テナリ、觀者乞フ之ヲ亮セヨ
明治庚寅、寒風颯々肌ヲ裂キ、將ニ衣ヲ重子ントスルノ交、遠ク北天ヲ望テ往時ヲ回顧シツヽ、東京客舍ニ於テ
北海道土人通語
近頃は世間何となく、北海道〳〵と心を北海道に寄するもの、日に多きを加ふるが如く、北海道も亦內地人を待つ事漸次周到の勢あり、而して石狩、北見、十勝の諸國は、北海道中の曠原沃野にして、開墾に、牧畜に、養蠶に何れも能く適合せる事は、北海道通の能く知る所たり、今此原野に於て、開墾し、牧畜し、養蠶せんと欲する者あるも所謂「アイノ」(土人)の通語を解する事能はざれば、大に困難し又差支を生することもあらん、從來此の諸國の土人は語音相似て、日高國沙流郡〈仝郡平取村は土人の都府と稱し義經の木像を祠りありし所なり〉等と其趣を異にせり、世間傳ふる所多くは沙流郡の通語にして、未だ此の諸國の語(之を總稱して十勝語といふ)に通ずる者多からず、予や甞て偶ま十勝國に遊び土人と交ること久し、故に今一寸覺へて置かされば不都合じやと思ふ者のみを撰で、心を北海道に寄する人々の手引草の一助に供すと云爾
因云 土人とは徃昔所謂蝦夷人をいふ、今尙土人と唱へて、移住民と區別するものは、人情、風俗、及ひ言語の異なるあるを以てなり、今其近况を槪言ば、逐年開進に趣くの狀ありと雖ども、性質頑愚、常に野獸を捕へ魚介を漁するを好み、粗衣惡食是れ足れりとし、口邊に文し、耳端に環し、蓬髮、徒跣の風俗は今尙存して改めずといふ
天地
リッダ(天又ハ高) ラム(地又ハ低) シクシカモイ(日)〈カモイとは神の義にして尊敬せるものには多く之を附用す〉 ツップカモイ(月) ノチウ(星) ケモロス(山) べツ(川) アドヒ(海) ノプカ(原野) ノプリ(峯) ショマ(石) コユップケ(荒浪) ルウ(道) パエー(登) サン(降) シンブイ(穴) シリボッケ(暖氣) メアン(寒氣) ルヤンベ(雨) レラ(風) ユプケ(吹)ルイ(降) シリベケエレ(明) シリクン子(暗) タンド(今日) ニシヤッタ(明日) タノコラ(今晩) タノオノマン(仝上) オクラン(昨晩) ヌーマン(昨日) ホシカヌーマン(一昨日) オヤシミ(明後日) クン子ワノ(朝) トウグシ(晝) アンノスキ(夜半) サツ(乾燥) テー子(濕) コッチャケ(前) オシマケ(後) クシヌ(向側) シュニ(靑) デダリ(白) クン子(黑) フレ(赤) コタン(村落)
因云 北海道の地名は、槪ね土人の語を直譯せる者にして、土人は其大小、乾濕及川狀等總て地形の如何に依て、之を稱呼せる者に係る、例へば札幌とは乾燥たる廣地、幌別とは大川の地、手稻とは濕地といふ意味にして、夫々據所ある者と知るべし
人事
クル(人) アイノ(男) メノコ(女) チヤ〳〵(父又ハ老爺の惣稱) バッコ(母又ハ老婆の惣稱) イホク(夫) クマチ(妻) ユボ(兄) アキ(弟) セカチ(男兒) オベリキ(女兒) チヨウカイ(我) ヤニ(汝) ニスッパ(君) シャモ(內地人) アカヒト(外國人) オテナ(酋長) 子コ(名) ラムワン(優) イゴッカ(愚) トラン子(怠惰) サウレ(仝上)イカウン(勝) イラボッカレ(負) カトハウキ(多言) ウゴイキ(喧嘩) イタッキ(言語) ウヱ子ウサラ(仝上) ヱー(左樣) シュンゲ(僞) モライケ(働) クジャルサク(謝罪) ニッチヤテキ(愉快) 子ウシヤ(仝上) アシカイ(上手) ラカイシャム(下手) クイミナルシュイ(可笑) ラムトュエ(驚愕) イルスカ(憤怒) クイラヌムクリ(可憐) アヤッポ(恐怖) ウワア(不知) ヱラミシカリ(仝上) クコチャン(謝斷) ショモ(不然) ヱンコレイ(頂戴) ヤイライケレ(謝禮) ヤンカラフテー(挨拶言詞) ノキアレ(出產) ライキ(死去) バラ〳〵ク(泣) ヱチヱラマスアン(戀慕) サラバー(左樣なら) モノア(坐居) アウカシ(步行) シ子ベ(遊戯) オマン(行く) ヤイグメスノ(淋しひ) ホヾニ(起) モコロ(寢) オトママン(抱寢) トマヽホッケ(仝上) アラマス(好) コンルスイ(仝上) クィベルスイ(空腹) イカシュイ(手傳) ウトシマックアン(競爭) ウタセ(交換) ヱ子ルサ(借) ヱゼルスアム(貸) ウコイヨッキ(買) イ子チャコク(敎授) ヱラムアンナ(不覺哉) ラムアンナ(仝上) クイラムアンマ(覺へたり) キマッテキ(仲裁) コル(持つ) ヱタケヱッキ(可來) オシビ(歸る) ヱタオシビ(所歸) イギリスヤニ(承知) 子ン(誰) ウラヱ(洗) シケ(負ぶ) ウック(拾)オッツヱ(捨) シニ(休息) ヱレウシカ(宿泊) ヌカラ(見) ヌー(聞) ケム〳〵(舐) フラ(香) ラリウ(漕) ウヱン(惡) シッ(大便) オソマ(仝上) オクイマ(小便)
身体
ニドバケ(身体) ・ナヌ(顏) パッケ(頭) オトップ(髮) キサラ(耳) シギ(目) チャロ(口) エト(鼻) テケ(手) ツキリ(足) レッケ(髯) アム(爪) パルンベ(舌) ホニ(腹) チイ(淫莖) ボッキ(淫門) アシギベツ(指) ルス(皮) ヤヱウヱン(跛) シヱヽ(病氣) シンキ(疲勞) ヤマイゲ(疥癬) 若しくは(痒) インキキ(掻く) アルカ(痛) アヨ(仝上)
飮食
エベ(
食) ィクッ(
飮む) アマヽ(食物の通稱) ワッカ(
水) ヤムワッカ(
冷水〈盖しヤムは山の變語にして山の清水といふ義ならん〉) ウセ(
熱湯) セヽワッカ(
仝上) シュゲー(
煎) セヽカ(
可熱) トンドラ(
氷) シュム(
油) オハウ(
汁) ルリ(仝上) チヤン(
甘味) チャラカラ(
辛) シウ(
苦味) ルヽコル(
酸味) エルスイ(
好食) ヨウスケ(
酩酊)
物名
チセ(家) チップ(舟) アベ(火) ス子(燈火) ラッチャク(仝上) イタ(膳) イタンキ(椀) パシュイ(箸) チエンヌイペ(枕) アボスタ(戶) ツミップ(衣裳) モッウル(肌着) アベパシュイ(火箸) イヌンベ(爐) セレンボ(煙管) アベニー(薪) チボ(櫂) ツリ(櫂棒) キナ(土人敷物) カンビ(書物、帳面等の惣稱盖し紙の變語ならん) チョンバ(舛)
因云 從來北海道に產出するものは、各其名稱を存すと雖ども、內地より輸入せる物等は、多く原名を用ゆ、然るに其中間に原名を變訛して、一種異樣の名稱を用ふる者あり、例へばチヽッポ(短袖)馬をウンマ烟草をタンバコといふの類、且甚しきは內地人にして土人語を用ゐ、土人却て內地語を唱へ、稍や主客の度を失するの傾きあるに至る、譬へば永年十勝國等に住する內地人は、煙管をセレンボといひ、土人は却てキセルといふが如き是れなり
動植物
チカップ(鳥の通稱) ポンチカップ(小鳥)〈凡て何鳥何鳥と各自の名稱あるにあらず槪ね之を惣稱せるなり〉 ウオロン、チカップ(鴨〈ウオロンは潜伏の意〉) パスクル(烏) チヱップ(魚の通稱) シベ(鮭) イザニュ(鱒) ヘロギ(鰊)トュクシヽ(飴鱒) キキャブ(やまめ) シュブン(鰄) チライ(糸魚) バケボロ(石魚) アバヤヽ(蟹) ユッコ(鹿) キモウカモイ(熊) チロノップ(狐) セタ(犬) エルムン(鼠) カセコルクル(縞鼠) ウルキ(虱) ダイキ(蚤) ヤブツッケ(虻) ヱトタニ(蚊) イビロレ(蚋) キヽリ(仝上) ノック(卵) ムシ(草) トップ(笹) ノヤ(蓬) コロコニ(葺) ベカンベ(菱) ハッツ(葡萄) シタコロコニー(午房) シクトュ(葱) マウ(濱梨) シユ〳〵(柳) ニノミ(胡桃) テシマニ(桑) カーボイ(野麻) ヱイソ(莨用草)
數
シ子ップ(一) トップ(二) レップ(三) イ子ップ(四) アシキ(五) イワンベ(六) アルワン(七) トベサンベ(八) シ子ベサンベ(九) ワンベ(十) シ子イッキ(百) ワ子イッキ(千)
因云 十一、十二といふときは、(ワンベ、イカシマ、シ子プ)(ワンベ、イカマシ、トップ)百十は、(シ子イッキ、イカシマ、ワンベ)と唱ふるガ如シ蓋し(イカシマ)とは餘剩の義にて十に餘る何程、百に餘る何程といふに異ならす又一升二升とは
シ子ップ、チョンバ(一升) トップ、チョンバ(二升) ワンベ、チヨンバ(一斗) シ子イッキ、チョンバ(一石)と唱ふるなり
雜事
カモイ(神) ヲッツケ(可爲) イテッケ(勿爲) アシナルキ(初て來た) ナー(何でありますと問返す言詞) 子ックセ(如何) 子コノ、アタヘアン(何程價なるや) 〈土人は、物品の交換のみにて、金錢を以て、賣買せしとあらざりしも、近來內地人と交際するに際り、代價を要することヽはなりぬ、故に價の如きは從來通稱なきものと知るべし〉 子プヘ(何事じや) トアベ(彼物) タンベ(是物) エンコタ(早く) コルマン(持行) コルアルキ(可持參) ホックワエッキ(可買參) テ子ハンケノエッキ(此處へ來れ) タン、コタン、子コノレーアン(此地は何といふ名ぞや) 子ダ、オマン(何地へ行くや) ヱンコタヱッ(早く來れ) イチャツキレイ(汚物) アッカ(仝上) ピリカ(美麗又は珍奇) ムニン(腐敗) ボロノ(澤山又は巨大又は廣い) ポンノ(少許又は小) ルヱ(太) ア子(細) シカナッキ(圓形) タン子(長) タク子(短) アン子(尖) コムコムセ(縮) メルヽクス(三角) ルヽクス(四角) ピカン(駿速) ヱドック(出る) サンゲー(出せ) オマレー(入る) イシャマ(無、不居、紛失) チシコラス(鳴くよふじや) チイ(成熟) ソウカ(敷く) フップ(膀脹) 子プカ、イナラカ、イシャマ、ナー(其外別ニ異事なきや)〈此語多く警察官吏が土人を糺問するに用ゆるなり〉 マカ(開) アシ(閉) ヱヤイ、子ンコロワ、ヱンコレー(周旋依賴) コワシ(破損) チヤランケ(談判) イカシマ(餘剩) カラ(製造) オテシバ(働かす) タノコラ、ヱレウシカ、ヱンコレー(今夜宿泊依賴)
附言
土人の言辭は至て少なし、類似の者槪ね一語にて足れり、例へば大も、多も、廣も、厚も(ポロ)小も、少も、薄も、幼も、微も(ポン)美も、善も、珍も(ピリカ)といふが如し、故に先づ右に記載せる數事を丸呑にして置けば、縱令如何なる山奧へ行くも、决して土人に馬鹿にされたり、又意思相通ぜずといふことなく、其上尙いろ〳〵の言を覺ばんには、頗る容易く出來得るなり、加之土人の言辭は、和語や、漢語や、洋語の如く、綴方に別に法則あるにあらず、どれでも本文の語を一つ〳〵合はせるときは、それが一つの言辭とはなる譬へば
ぴりかめのこと、となせのもころ
ぬしやツた、ぱすくる、ちしこらす
といふが如く、眞に早や無雜作至極の限りにこそあるなり