1974年の日本ハムファイターズ
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1974年の日本ハムファイターズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ6位 年間6位:49勝75敗6分 勝率.395 後期6位:24勝39敗2分 勝率.381 前期6位:25勝36敗4分 勝率.410[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
後楽園球場 | |
球団組織 | |
オーナー | 大社義規 |
経営母体 | 日本ハム |
監督 | 中西太 |
« 1973 1975 » |
1974年の日本ハムファイターズ(1974ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1974年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。
このシーズンの日本ハムファイターズは、球団が日拓ホームから日本ハムに身売りされ、チーム名が「日本ハムファイターズ」に改称された最初のシーズンであり、中西太監督の1年目のシーズンである。
概要
[編集]先述の通り、球団が日拓ホームから日本ハムへ身売りされて球団名も変更、そして監督は前年までヤクルトアトムズのヘッドコーチだった中西太を迎え、球団社長には同球団の監督で中西の義父・三原脩が就任した。だが終わってみれば1968年以来の最下位、そこで三原球団社長はチーム改造に着手し、まずシーズン終了直後の10月22日に大下剛史が広島東洋カープの上垣内誠・渋谷通と交換トレード、続いて1週間後の10月30日には大杉勝男がヤクルトの小田義人・内田順三と交換トレード、他にも白仁天が太平洋クラブライオンズの東田正義と交換トレードとなり、東映時代からの主力3選手が一気に放出される事となった。
チーム成績
[編集]レギュラーシーズン
[編集]1 | 三 | 阪本敏三 |
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2 | 二 | 大下剛史 |
3 | 左 | 張本勲 |
4 | 一 | 大杉勝男 |
5 | 右 | 千藤三樹男 |
6 | 中 | 白仁天 |
7 | 捕 | 加藤俊夫 |
8 | 遊 | 末永吉幸 |
9 | 投 | 渡辺秀武 |
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順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | ロッテオリオンズ | 69 | 50 | 11 | .580 | 優勝 |
2位 | 阪急ブレーブス | 69 | 51 | 10 | .575 | 0.5 |
3位 | 南海ホークス | 59 | 55 | 16 | .518 | 7.5 |
4位 | 太平洋クラブライオンズ | 59 | 64 | 7 | .480 | 12.0 |
5位 | 近鉄バファローズ | 56 | 66 | 8 | .459 | 14.5 |
6位 | 日本ハムファイターズ | 49 | 75 | 6 | .395 | 22.5 |
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定 [1]
オールスターゲーム1974
[編集]→詳細は「1974年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
ファン投票 | 選出なし | ||
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監督推薦 | 新美敏 | 大杉勝男 | 張本勲 |
できごと
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 5月9日 - 3月26日に入団、4月25日に初給料50万円(年俸600万円の月割り)を支給され、4月27日に多摩川グラウンドでのイースタン・リーグの試合に先発する予定だったが突如失踪したバール・スノーが、パ・リーグから史上2人目(パ・リーグ及び外国人では現在唯一)の「無期限失格選手」とされる。なおスノーは後に、故郷・ユタ州に帰郷した事が判明した。
- 4月24日 - 張本勲が後楽園球場での対近鉄2回戦の1回裏に二塁打を放ち、プロ通算300二塁打を達成[2]。
- 5月8日 - 後楽園球場での日本ハム対太平洋3回戦の試合で、7回表に太平洋のファンが三塁手の阪本敏三めがけてビール瓶を投げつけ坂本は頭を裂傷し、日本ハムナインとファンが小競り合いする騒ぎが起きる[3]。
- 7月5日 - 後期開幕。この日からユニフォームはホーム・ビジターとも「縦縞無し」から「縦縞有り」に変更、1979年に「ベルトレスからベルト入り」と「ビジター用胸マークと背番号を白から赤」に変更し、リーグ優勝した1981年まで使用した。
- 7月17日 - テリー・レイが対近鉄後期一回戦の一回表に3つボークを取られ、1イニング3ボークのパ・リーグ新記録[4]。
- 8月18日 - 高橋直樹が日生球場での対近鉄後期7回戦で史上唯一の「一人で1試合の勝利投手とセーブ投手の両方を記録」を達成した[5]。この後、ルール改定が行われ、「勝ち投手になった場合、その人物にはセーブをあたえない」という規定が追加されたため、現在では達成不可能。
- 8月29日 - 張本勲が神宮球場での対太平洋後期8回戦に出場し、プロ通算2000試合出場を達成[6]。
- 9月29日 - 高橋博士が後楽園球場での南海ダブルヘッダー第二試合の後期13回戦で史上初の1試合全ポジションに付く[7][8]
- 10月2日 - 大杉勝男が1968年9月21日からこの日の試合まで、球団記録の798試合連続出場[9]。
- 10月22日 - 日本ハムと広島東洋は、大下剛史と上垣内誠・渋谷通のトレードが成立したと発表。
- 10月30日 - 日本ハムとヤクルトは、大杉勝男と小田義人・内田順三のトレードが成立したと発表[10]。
選手・スタッフ
[編集]表彰選手
[編集]リーグ・リーダー[1] | |||
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選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
張本勲 | 首位打者 | .340 | 2年ぶり7度目 |
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
張本勲 | 外野手 | 3年連続14度目 |
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選出なし |
ドラフト
[編集]→詳細は「1974年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
---|---|---|---|---|
1位 | 菅野光夫 | 内野手 | 三菱自動車川崎 | 入団 |
2位 | 川原昭二 | 投手 | 丹羽鉦電機 | 入団 |
3位 | 吉武正成 | 投手 | 専修大学 | 入団 |
4位 | 木村聖一 | 投手 | 弘前実業高 | 拒否・電電北陸入社 |
5位 | 柿崎幸男 | 外野手 | 三沢高 | 入団 |
6位 | 中野晴彦 | 内野手 | 新発田農業高 | 入団 |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c “年度別成績 1974年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年6月5日閲覧。
- ^ 読売新聞1974年4月25日14面「張本300二塁打」読売新聞縮刷版1974年4月p752
- ^ 読売新聞1974年5月9日14面「後楽園でファン騒ぐ ビン当たり阪本(日本ハム)負傷」読売新聞縮刷版1974年5月p218
- ^ 読売新聞1974年7月18日15面「日本ハム・レイ投手が1イニング、ボーク3のパ・リーグ新記録」読売新聞縮刷版1974年7月p559
- ^ 読売新聞1974年8月19日14面「高橋直、勝利とセーブ」読売新聞縮刷版1974年8月p516
- ^ 読売新聞1974年8月30日15面「日本ハム・張本が2000試合出場」読売新聞縮刷版1974年8月p839
- ^ 読売新聞1974年9月30日15面「高橋博全ポジション」読売新聞縮刷版1974年9月p937
- ^ “【9月29日】1974年(昭49) 日ハム・高橋博士、日本初!1試合で全ポジション守る”. 日めくりプロ野球. スポーツニッポン新聞社. 2015年12月10日閲覧。
- ^ “個人打撃連続記録(1)”. パシフィック野球連盟公式サイト. 2015年12月10日閲覧。
- ^ 毎日新聞1974年10月31日15面「大杉がヤクルト入り」毎日新聞縮刷版1974年10月p889
- ^ ベースボールマガジン2002夏季号, ベースボールマガジン社, (2002), p. 123
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | ||||||
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優勝 | 中日ドラゴンズ | 2位 | 読売ジャイアンツ | 優勝 | ロッテオリオンズ | 2位 | 阪急ブレーブス |
3位 | ヤクルトスワローズ | 4位 | 阪神タイガース | 3位 | 南海ホークス | 4位 | 太平洋クラブライオンズ |
5位 | 大洋ホエールズ | 6位 | 広島東洋カープ | 5位 | 近鉄バファローズ | 6位 | 日本ハムファイターズ |
:後期優勝・日本一 :日本シリーズ出場 :前期優勝(パ・リーグ) | |||||||