1882年の相撲
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1882年の相撲(1882ねんのすもう)は、1882年の相撲関係のできごとについて述べる。
興行
[編集]- 1月場所(東京相撲)[1]
- 興行場所:本所回向院
- 1月12日より晴天10日間興行
- 6月場所(東京相撲)[2]
- 興行場所:本所回向院
- 6月8日より晴天10日間興行
- 9月場所(東京大阪合併相撲)[3]
- 興行場所:難波新地
- 10日間興行
誕生
[編集]- 1月7日 - 勝鬨鉄藏(最高位:前頭8枚目付出、所属:尾車部屋、 1940年【昭和15年】)[4]
- 1月7日 - 紫雲竜吉之助(最高位:前頭筆頭、所属:高砂部屋→阿武松部屋、 1946年【昭和21年】)[5]
- 3月25日 - 日本海忠藏(最高位:前頭16枚目、所属:立田川部屋→出羽ノ海部屋、 1953年【昭和28年】)[6]
- 5月8日 - 桂山勘五郎(最高位:前頭6枚目、所属:尾車部屋、 1926年【大正15年】)[7]
- 3月14日 - 浪ノ音健藏(最高位:関脇、所属:高砂部屋、 1967年【昭和42年】)[8]
- 4月8日 - 千船川浪之助(最高位:前頭5枚目格付出(大阪関脇)、所属:井筒部屋、 1949年【昭和24年】)[9]
- 9月2日 - 氷見ヶ濱弥太郎(最高位:前頭13枚目、所属:稲川部屋、 1942年【昭和17年】)[10]
- 9月13日 - 神嵜重太郎(最高位:前頭13枚目、所属:高砂部屋、 1942年【昭和17年】)[11]
- 12月11日 - 相生枩五郎(最高位:関脇、所属:出羽ノ海部屋、 1922年【大正11年】)[12]
死去
[編集]- 4月4日 - 朝日嶽鶴之助(最高位:大関、所属:立田川部屋、年寄:立田川、* 1840年【天保11年】)
- 7月11日 - 不知火光五郎(最高位:大関(大坂相撲)、* 1847年【弘化4年】)
- 9月19日 - 荒虎敬之助(最高位:小結(現役没)、所属:若藤部屋→伊勢ノ海部屋→若藤部屋、年寄:若藤、* 1843年【天保14年】)
- 9月21日 - 荒角金太郎(最高位:前頭3枚目(現役没)、所属:桐山部屋、* 生年不明)
- 10月8日 - 初代大鳴門灘右エ門(最高位:前頭筆頭、所属:二十山部屋→阿武松部屋、* 生年不明)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 酒井, pp. 59–60.
- ^ 酒井, pp. 60–62.
- ^ 酒井, p. 62.
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 28頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 14頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 33頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 21頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 11頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 26頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 17頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 16頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 24頁
参考文献
[編集]- 酒井忠正『日本相撲史 中巻』ベースボール・マガジン社、1964年6月1日。