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青木泰二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青木 泰二郎
Taijiro Aoki
生誕 生年不詳
死没 1962年
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1913年 - 1945年
最終階級 海軍大佐
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青木 泰二郎(あおき たいじろう、生年不詳 - 1962年昭和37年〉)は、日本海軍軍人海軍大佐ミッドウェー海戦で撃沈された航空母艦赤城艦長として知られる。

概要

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海軍兵学校41期)を1913年大正2年)12月に卒業。同期生に草鹿龍之介木村昌福田中頼三らがいる。1937年(昭和12年)12月、大佐へ昇進。水上機母艦・「瑞穂」艦長、横須賀海軍航空隊予科練部長を経て、土浦海軍航空隊司令として太平洋戦争を迎える。

1942年(昭和17年)4月25日に「赤城」艦長に就任。しかし、就任2ヶ月に満たない同年6月5日、ミッドウェー海戦において「赤城」は被弾・炎上。青木は沈没まで指揮をとり、乗組員の退艦を図った。青木は「赤城」と最期を共にするつもりであったが、乗組員たちに「赤城」から無理矢理引きずり降ろされ生還する。帰国後7月14日付けで予備役に編入されたが、召集を受け海南警備府附となる。その後は海口海軍航空隊佐世保海軍航空隊元山海軍航空隊の各司令を勤めた。元山空で終戦を迎えた時、青木は内地に飛行機で戻り、残された隊員たちはソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された。このことから青木の行動を「敵前逃亡」と非難する元部下もいる[1]。その後、公職追放となった[2]。戦後は埼玉の幼稚園長として勤務した。

筑波大学教授・青木彰(海兵75期)は息子[3]。その妻は女優の佐々木すみ江

脚注

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出典

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  1. ^ 渡辺洋二『戦雲の果てで』
  2. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、1頁。NDLJP:1276156 
  3. ^ 『司馬遼太郎からの手紙』「ミッドウェーの艦長」

参考文献

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