阿部企業硬式野球部
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チーム名(通称) | 阿部企業 |
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加盟団体 | 日本野球連盟 |
加盟区分 | 企業チーム |
創部 | 1970年 |
廃部 | 1999年 |
チーム名の遍歴 |
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本拠地自治体 |
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都市対抗野球大会 | |
出場回数 | 1回 |
最高成績 | ベスト8 |
社会人野球日本選手権大会 | |
出場回数 | 1回 |
最高成績 | 準優勝 |
全日本クラブ野球選手権大会 | |
出場回数 | ※出場資格なし |
阿部企業硬式野球部(あべきぎょうこうしきやきゅうぶ)は、兵庫県神戸市に本拠地を持ち、日本野球連盟に所属していた社会人野球チーム。
概要
[編集]1970年11月に社会人野球連盟加入。1970年代後半は休部状態だったが、1982年より本格的に活動を再開し、1986年、第57回都市対抗野球大会に初出場。台湾出身の陽介仁(陽岱鋼の叔父)、補強選手の岡本透投手らの活躍で川崎市・三菱自動車川崎、郡山市・ヨークベニマルに勝ち8強入り。準々決勝で横浜市・日本石油に敗れた。当時は馬淵史郎(当時は中本姓)が監督、宮岡清治がコーチを務めていた[1]。
同年、第13回社会人野球日本選手権大会に初出場。三菱自動車水島、三菱自動車京都、川崎製鉄神戸に勝ち決勝進出した。決勝でNTT東海に敗れた[2]。
1990年のプロ野球ドラフト会議で柴田佳主也が近鉄バファローズから4位指名を受けて入団。以降は移籍組を含めて毎年のように選手が入れ替わっていた。
1996年、「デ・パルマの英雄」と呼ばれたルルデス・グリエルが入団。グリエルは1998年にいすゞ自動車へ移籍した。
1999年限りでチームが休部となり、翌年は阿部企業アスピアクラブとなるが間もなく活動休止。また、経営者が同時期に関西野球専門学校(アスピア学園)を立ち上げて同じ兵庫県に加盟したが後に休部、閉校となった。
逸話
[編集]- 馬淵史郎が監督だった当時は専用グラウンドがなく、選手は夜勤後の午前中に練習していた。監督である馬淵も深夜の工事現場で警備の仕事をしていたという[3]。
- 柴田佳主也は阿部企業に所属していた当時、社業で警備員として働いていた。工事現場での警備の際にイノシシに襲われ、すんでのところで襲撃をかわし助かった。
沿革
[編集]主要大会の最高成績
[編集]- 都市対抗野球大会:8強1回(1986年・第57回)
- 社会人野球日本選手権大会:準優勝1回(1986年・第13回)
主な在籍選手
[編集]主な外国人選手
[編集]- ルルデス・グリエル(キューバ)