阮振鐸
阮振鐸 | |
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『満洲建国十年史』(1942年) | |
プロフィール | |
出生: | 1892年(清光緒18年)5月12日[1][2] |
死去: |
1973年 中華人民共和国 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府鉄嶺県 |
職業: | 政治家・外交官・医師 |
各種表記 | |
繁体字: | 阮振铎 |
簡体字: | 阮振鐸 |
拼音: | Ruǎn Zhènduó |
ラテン字: | Juan Chen-tuo |
和名表記: | げん しんたく |
発音転記: | ルアン ジェンドゥオ |
阮 振鐸(げん しんたく)は、中華民国、満州国の医師・政治家・外交官。字は叔周。
事績
[編集]奉天省立高等工業学校を卒業し、さらに1913年(民国2年)に南満医学堂を卒業した。1919年(民国8年)、日本に留学し、京都帝国大学で医化学を専攻した。帰国後の1923年(民国12年)、奉天公立医学院院長兼東北大学校医となった。その後、奉天派の支配地域で軍医等を歴任している。1929年(民国17年)、長春・吉林・吉敦鉄路医院院長となった[3][4]。
満州国成立後の1932年(大同元年)4月、奉天省公署秘書長に就任する[3][4]。また、この頃には、于静遠や満州青年連盟の山口重次・小澤開作とともに、満州協和党(後の満州国協和会)を結成した[5]。11月、国務院国都建設局局長に任命された[3][4]。1935年(康徳2年)5月21日、張景恵が国務総理となった際に文教部大臣として抜擢される[6]。1937年(康徳4年)6月23日、謝介石の後任として駐日特命全権大使を命ぜられた[7]。1940年(康徳7年)12月6日、 李紹庚と入れ替わりで交通部大臣に任命される[8]。1942年(康徳9年)9月28日、全面的な内閣改造に伴い経済部大臣に移り[9]、1944年(康徳11年)12月16日には外交部大臣へ転じた[10]。
1945年(民国34年)8月、満州国が滅亡すると、阮振鐸はソ連に逮捕、連行されてしまう。1950年7月31日、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監された。なお、この収監中において、愛新覚羅溥儀による『我が半生』(原題『我的前半生』)の執筆を手伝っている。1962年、特赦により釈放された。以後、吉林衛生学校、長春市立医院図書館などで勤務している。1973年、死去[3][4]。享年82。
注
[編集]- ^ 中央檔案館編(2000)、129頁。
- ^ 王ほか主編(1996)、553頁は1893年(光緒19年)、徐主編(2007)、410頁は1881年(光緒7年)生としているが、本人の供述調書である中央檔案館編(2000)に従う。
- ^ a b c d 王ほか主編(1996)、553頁。
- ^ a b c d 徐主編(2007)、410頁。
- ^ 山室(2004)、199頁
- ^ 「鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下」『東京朝日新聞』昭和15年(1935年)5月22日夕刊。
- ^ 「駐日満州国大使 阮文教部大臣に決す」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月24日夕刊。
- ^ 「駐日満大使異動 李交通部大臣と入代り」『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)12月7日夕刊。
- ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日。
- ^ 「満州国大臣級異動」『朝日新聞』昭和19年(1944年)12月17日。徐主編(2007)、410頁。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7805074135。
- 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社(中公新書)、2004年。ISBN 4-12-191138-5。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 「阮振鐸筆供(1954年7月14日)」中央檔案館編『偽満洲国的統治与内幕―偽満官員供述』中華書局、2000年。ISBN 7-101-01888-2。
満州国
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