間部詮茂
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 1739年6月21日(元文4年5月16日) |
死没 | 1786年7月2日(天明6年6月7日) |
改名 | 詮堅→詮茂 |
別名 | 八次郎 |
官位 | 従五位下・下総守、若狭守 |
藩 | 鯖江藩主 |
氏族 | 間部氏 |
父母 |
父:間部詮方、母:足立氏の娘 養父:間部詮央 |
兄弟 | 詮央、詮茂、佐久間信邦、方元、田中方親、阿部正包他。[1] |
妻 |
正室:祥運院(堀田正亮の娘) 側室:清心院(丹羽長庸の娘) |
子 | 詮熙、輝(間部詮芳室)、潔、山名義蕃、仙石久徳、豊、酒井忠固 |
間部 詮茂(まなべ あきとお)は、越前鯖江藩の第4代藩主。間部家5代。第2代藩主・間部詮方の三男。母は家臣・足立氏の娘。第3代藩主・間部詮央の異母弟。正室は堀田正亮の娘(祥運院)。継室は丹羽長庸の娘(清心院)。初めは詮堅と名乗った。
生涯
[編集]鯖江で生まれる。明和8年(1771年)7月22日、兄詮央が嗣子無くして死去したため、その養子となって家督を継いだ。安永元年(1772年)6月1日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月18日、従五位下・下総守に叙任する。安永2年(1773年)6月28日、初めてお国入りする許可を得る。
藩財政再建のため、自ら入国して領内を巡察するなどの積極性を見せたが、天明の飢饉により領内で7597人もの餓死者を出し、借金をして領民を助けなければならないという有様で、藩財政の窮乏化が進んだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 祥運院 - 堀田正亮の娘
側室
- 清心院 - 丹羽長庸の娘
- 水谷氏
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 間部家文書刊行会『間部家文書』第三巻 鯖江市、1984年。