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間の宿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

間の宿(あいのしゅく。正しくは綴り字間宿)は、日本近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種。宿泊は禁止されていた[1][2]

宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設である(一部例外あり)。

尚、本項目で扱う「宿場」の概念は、通俗語のそれ、即ち日本のおおよそ全ての時代に共通で日本以外に対しても用いる、通常に言うところの「宿場」とは違う、江戸時代の宿駅制度(宿場・伝馬制度)上のものに限られる。

概要

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宿場間の距離が長い、越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、このような地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、そのようにして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間の宿」である。ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村もしくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていた。それ故に旅籠(はたご)は存在しないし、駕籠や人足、伝馬を扱う問屋場もなかったが、これらはあくまでも名目上・表向きのことであった。正規の宿場には公用の旅行者や貨物を無料もしくは格安の公定価格で取り扱う義務があり、そのための経費を宿場が負担していた。その経費捻出のため幕府は旅籠の営業を宿場にのみ限定し遊女である飯盛女も認めていた。しかし間の宿では公役を負担していないので幕府は宿場保護のため間の宿での旅籠及び遊女を禁止していた。一般の宿場同様に米屋や酒屋などの各種商店が櫛比しており、周辺村落の住民も商店街として利用していた。

間の宿として異例であるが、東海道金谷宿 - 日坂宿間にある菊川宿のように、徳川幕府による宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間の宿となった場合がある。この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川川留めなど諸事情により旅人の宿泊施設が足りなくなった時などは、宿泊が公認された。 なお、間の宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、いわゆる“峠の茶屋”等がそれである。間の宿のなかには立場が発展したものもある。

主な間の宿

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『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』
天保6 - 8年(1835 - 1837年)、渓斎英泉
この名所絵浮世絵風景画)は中山道六十九次を描いた作品『木曽街道六十九次』の中の1図。正規の宿場の1つである鴻巣宿を表すためのものであるが、実際に描かれているのは、間の宿がある吹上から望む関東平野富士山の景観である(詳しくは他項目「吹上宿」を参照)。

脚注

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  1. ^ 大辞林「あいのしゅく」
  2. ^ デジタル大辞泉『間の宿』 - コトバンク参照

関連項目

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