コンテンツにスキップ

釜石鉱山鉄道C1 20形蒸気機関車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
釜石鉱山鉄道C1 20形蒸気機関車
釜石市立鉄の歴史館にあるC20型蒸気機関車
釜石市立鉄の歴史館にあるC20型蒸気機関車
基本情報
設計者 釜石鉱山鉄道
製造年 1933年
製造数 9
主要諸元
軸配置 C1サイドタンク式
軌間 762mm
全長 8,316mm
全幅 2,100mm
全高 2,800mm
機関車重量 20.0t
運転整備重量 20.0t
動輪径 800mm
従輪径 560mm
軸重 5.5t(最大値)
シリンダ数 2
シリンダ
(直径×行程)
280mm×380mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 13.0 kg/cm2 (1.275 MPa; 184.9 psi)
火格子面積 1.02m2
燃料 石炭・重油
備考 ※過熱化・重油併燃化改造後の諸元
テンプレートを表示

釜石鉱山鉄道C1 20形蒸気機関車(かまいしこうざんてつどうC1 20がたじょうききかんしゃ)は、釜石鉱山鉄道で使用された蒸気機関車の1形式である。1933年より製造が開始され、1965年3月28日の釜石鉱山鉄道線廃止まで32年にわたって同鉄道線の主力機関車として重用された。なお、形式称号は軸配置(日本国鉄式)および自重(トン数)を組み合わせたものである。

概要

[編集]

1910年の蒸気動力への転換以降、釜石鉱山鉄道では10t - 15t級のタンク式蒸気機関車を順次導入していた。15t級機は762mm軌間の軽便鉄道向けとしては相応の大型機であったが、1930年代に入り満州事変などの影響で鉄鉱石輸送需要が急増していた釜石鉱山鉄道においては輸送力強化が求められる中、これらの牽引力不足が目立つようになっていた。そこで、釜石鉱山鉄道本線の輸送力強化のため強力な20t級新型機関車の新造が決定され、以下の順で9両が製造された。

1933年発注
201・202[1]
日本車輌製造本店[注 1]
1939年発注
203[2]
本江機械製作所
1941年発注
204 - 207[3]
帝国鋳鋼所
1942年発注
208・209[4]
立山重工業[注 2]

これらは1943年2月の209竣工をもって合計9両が出揃い、釜石鉱山の鉄鉱石輸送に重用された。

その基本設計は201・202の製造を担当した日本車輌製造がこれらと同時期に製作していた650形、およびその基本となった同じ日本車輌製造製の600形や日立製作所製の610形を筆頭とする、朝鮮鉄道黄海線[注 3]向けとして量産された、一連の軸配置を1C1とした25t~30t級762mm軌間用タンク式蒸気機関車シリーズに多くを負っている[5]

構造

[編集]

軌間762mm、運転整備重量20t、動軸軸距1,170mm 1,170mmで軸配置C1の、日本国内(内地)で使用された軽便鉄道用蒸気機関車としては最大級の寸法を誇る、飽和式単式2気筒サイドタンク機である。

前述の通り、その基本設計は朝鮮鉄道黄海線650形などに由来し、弁装置周辺のレイアウトや、ボイラーの第1・第2缶胴部など、設計や寸法が酷似する部分が散見される。

もっとも、旅客列車牽引用として設計され、軸配置1C1で動輪径もより大型(940mm)であった650形とは異なり、建築限界や軸重の制約が厳しく、しかも最大勾配36パーミルという急勾配線で編成の総重量が160tを超える重量級の鉱石列車を牽引すべく[注 4]設計された本形式では、動輪径が800mmとされ、火床面積も1.32m2から1.02m2へ縮小されてその分火室の奥行きが縮小されるなど、むしろ650形の基本となった610形などに近い寸法となっており、構造面はともかく外観については、基本設計を担当した日本車輌製造製の650形ではなく、日立製作所製の610形や雨宮製作所製の620形などの他社製先行機種との類似性の高いデザインとなっている。

ボイラーは第1缶胴に蒸気溜を、第2缶胴に砂箱を置く一般的な設計の狭火室ストレートボイラーである[6]。ただし、762mm軌間故に幅が狭い火床を第3動輪の後ろに大きく張り出して従輪で重い火室部分を支える構造とすることで、火床の奥行きが約1.5mと深くなる問題はあるものの所定の火床面積と出力を得る設計となっている。

このボイラーは上述の通り、飽和式として設計されたものであるが、1953年から1954年にかけて輸送力強化の一環として福島県の協三工業でシュミット式過熱装置を製作して煙管部に取り付け、軽便鉄道用機関車としては異例[注 5]の過熱式に改造されている[7]。この結果牽引力が約45%向上し、燃料消費量において40%の節減をみた[8]

従輪は車輪径560mmで第3動輪との間の軸距が1,670mmとなっている。これらの間は上バネ式の配置となっている両車輪の軸受担いバネ同士が釣合梁によって連結されており[6]、従輪に荷重を一定比率で負担させると共に軌道状態への追従を容易としている。なお、ブレーキシリンダーは火室火床部側面のこの釣合梁直上に設置されており、運転台の手ブレーキ装置からのテコと共にブレーキテコによって3つの動輪に設けられた片押し式踏面シューブレーキを作用させる設計となっている[6]

外観は、直径996mmと太いボイラーに、前方を斜めに削った高さ1,200mmと背の高いサイドタンク、そしてそれに押し上げられるようにして小さな側窓や妻窓が設けられ、さらに車両限界の制約から低く抑えられた屋根高さの運転台、と産業用機関車らしい無骨さと強力機らしい威圧感を兼ね備えた、軽便鉄道向けらしからぬ重厚な造形である。また、後年になってボイラー上の砂箱後部に併燃用の大型重油タンクが追加されたことで、威圧感や重量感が更に増している。

煙突は201 - 203・208・209は工作が簡単な通常のテーパー付きパイプ煙突であるが、帝国鋳鋼所製の204 - 207に限っては優美な化粧煙突が与えられており、機能主義的で無骨な造形の中にあって異彩を放っていた。

弁装置は大型機関車で一般的なワルシャート式で、シリンダブロックは煙突の中心線よりやや後退した位置に取り付けられており、シリンダからの排気管は弁室前面から突き出したものを折り曲げて垂直に立ち上げ、それを煙室内のブラストノズルまで導くというヨーロッパ製機関車で広く用いられていた配管の取り回しが行われている。これも朝鮮鉄道黄海線向け機関車で採られていた設計手法を援用したものであり、台枠寸法の許す範囲で最大のボイラーサイズを確保し、なおかつシリンダブロックや動軸を適切な位置に配置するための設計である。

連結器は釜石鉱山鉄道の標準に従い左右にバッファを備えたねじ式連結器が備えられていたが、これは後に牽引力増大を図るべく国鉄制式の並形自動連結器を3/4サイズに縮小した小型自動連結器への交換が実施されている。

ブレーキは当初、手ブレーキと共にボイラーからの蒸気圧によって駆動される蒸気ブレーキを備えていたが、これも後の改造で空気圧縮機とエアータンクを左右のサイドタンク前部に振り分けて搭載し、自動空気ブレーキを追設した。この改造によりブレーキ管が連結される貨車にも引き通され、各貨車でもブレーキを作用させることでより確実な制動力の確保と、これによる保安性の向上が図られている。また、砂箱からの撒砂管は第1動輪前方と第3動輪後方に導かれ、左右合計4本が設置されている。

運用

[編集]

竣工後、本形式は既存の15t級機と併用される形[注 6]で釜石 - 大橋間の本線貨物列車牽引に投入され、戦中戦後を通じて同線の主力機として昼夜を分かたず重用され続けた。

その後過熱式に改造することにより従来の飽和式では6両を必要としていたものが4両(飽和式1両予備)で済むことになった[9]。1950年代後半には輸送量の減少で201 - 205が廃車となった。206-209が残った形になったが実際は202と206、205と208は各々振替えられていた[10]。このため、元205である208には帝国鋳造所で製造された本形式の特徴である、鋳造化粧煙突が最後まで残されていた。

その後、製鉄所構内鉄道にはディーゼル機関車の導入が開始されたが、急勾配区間の続く本線運用を代替することは叶わなかった。そのため、本線貨物列車牽引は1965年3月28日の釜石鉱山鉄道線廃止まで、本形式4両が担い続けることとなった。

保存

[編集]

釜石鉱山鉄道の全線廃止後、不要となった本形式は順次廃車解体された。だが、ラストナンバーにして1965年3月28日の最終列車を牽引した209(立山重工業製)は記念物として釜石市内の富士製鐵釜石製鉄所健康保険組合小川体育館の屋外で静態保存され、富士製鐵新日本製鐵への改組後も引き続き同地で保存されていた。

現在は1985年7月に新設された釜石市立鉄の歴史館に移設され、同館屋外にて保存展示されている。

同系機

[編集]

本形式は軽便鉄道向けでは大型であったため、同系機種は本形式の設計の基本となった朝鮮鉄道黄海線向けの機種を別にすると、内地向けでは沖縄県営鉄道20形20号(1942年3月、本江機械製作所製[注 7])が存在する程度に留まっている[注 8]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 鉄道線を含む釜石鉱山の経営を行っていた株式会社田中鉱山は、1924年7月に三井鉱山の傘下に入り、株式会社釜石鉱山へ社名変更した。この当時、日本車輌製造は三井物産を代理店として鉄道車両の製造販売を行っており、釜石鉱山鉄道から同社への本形式の発注も、この資本・取引関係によるものであったと考えられる[独自研究?]。なお、釜石鉱山は201・202の竣工間もない1934年には三井財閥の手を離れ、国策会社である日本製鐵の子会社となっている。
  2. ^ 本江機械製作所の後身。
  3. ^ 日本統治時代の朝鮮の黄海道地域に建設された762mm軌間の私鉄線。軽便鉄道規格ながら多数の支線を擁し、輸送量も大きく日本統治時代を通じて強力機が求められ続けた。
  4. ^ ただし実際には鉱山から製鉄所へ向かって高低差約240mの下り片勾配となっており、牽引力そのものは極端に大きくはない。なお、この線形は後年自動空気ブレーキの搭載が強く求められる一因となった。
  5. ^ 第二次世界大戦後の日本国内では唯一。
  6. ^ これら15t級機の大半は、第二次世界大戦後の輸送需要減により余剰となり、1947年前後に栗原鉄道下津井鉄道井笠鉄道、それに鞆鉄道といった車両不足に悩む日本国内の762mm軌間の鉄道各社へ譲渡された。
  7. ^ ただし「立山重工業 -その蒸気機関車製造実績について・2-」p.74のメーカーでの形式区分によれば丁C1 21形となっており、釜石向けよりも運転整備重量が1t程度重かったことが知れる。
  8. ^ 「立山重工業 -その蒸気機関車製造実績について・1-」p.63掲載の機種別年度別一覧では本江機械製作所→立山重工業における丁C1 20形、つまり本形式と同級の機関車は1939年に1両、1942年に5両、合計6両のみの実績となっており、少なくとも同社においては釜石向けの3両と沖縄向けの1両以外では2両が他に生産されたことになるが、これら2両の納入先その他消息は明らかになっていない。

出典

[編集]
  1. ^ No.3「機関車設計ノ件」、No.4「機関車竣功ノ件」『第一門・監督・三、地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉱山)・昭和七年~昭和十五年』
  2. ^ No.37「機関車設計ノ件」、No.43「機関車竣功ノ件」『第一門・監督・三、地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉱山)・昭和七年~昭和十五年』
  3. ^ No.1「車輌増加ノ件」、No.3「車輌竣功ノ件」、No.4「車輌竣功ノ件」『第一門・監督・三地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉄道)・昭和十六年~昭和十七年』
  4. ^ No.14「車輌増加ノ件」『第一門・監督・三地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉄道)・昭和十六年~昭和十七年』
  5. ^ 「今でも蒸機軽便は走っている1 富士製鉄釜石製鉄所専用鉄道」p.35
  6. ^ a b c 「今でも蒸機軽便は走っている1 富士製鉄釜石製鉄所専用鉄道」p.34
  7. ^ 206(1953年6月改造)、207(1954年3月改造)、209(1954年5月改造)、208(1954年9月改造)小島裕「20頓過熱蒸気機関車の使用成果について」『富士製鉄技報」第4巻1号、1955年
  8. ^ 清野正衛・樽見昇「20頓過熱蒸気機関車(飽和蒸気の改造)の性能試験について」『富士製鉄技報」第3巻1号、1954年
  9. ^ 小島裕「20頓過熱蒸気機関車の使用成果について」『富士製鉄技報」第4巻1号、1955年
  10. ^ 「釜石専用線の軽便SLたち」36頁

参考文献

[編集]
  • 『STEAM LOCOMOTIVES』、日本車輌製造、1929年
  • 臼井茂信「今でも蒸機軽便は走っている1 富士製鉄釜石製鉄所専用鉄道」、『SL No.1 1965』、交友社、1965年、pp32-35
  • 渡辺肇「立山重工業 -その蒸気機関車製造実績について・1-」、『SL No.9 1974』、交友社、1974年、pp62-64
  • 渡辺肇「立山重工業 -その蒸気機関車製造実績について・2-」、『SL No.10 1976』、交友社、1976年、pp70-78
  • 三宅俊彦「釜石専用線の軽便SLたち」『蒸気機関車』No.49
  • 『第一門・監督・三地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉱山)・昭和七年~昭和十五年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
  • 『第一門・監督・三地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉄道)・昭和十六年~昭和十七年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)