コンテンツにスキップ

西源四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西 源四郎(にし げんしろう、文久2年10月25日1862年12月16日) - 昭和3年(1928年1月10日)は、日本外交官

経歴

[編集]

西房至の次男として長門国豊浦郡長府で誕生、上京して高谷竜洲の塾で漢学を学ぶ(同門に二葉亭四迷など)[1]明治16年(1883年)8月に外務省清国派遣留学生に選ばれ渡海、明治18年(1885年)11月にベルギーへ転じて大学に入り、明治24年(1891年)に卒業[1][2]、行政博士号を取得し帰国後の明治26年(1893年)6月に外務省試補、11月に参事官となり、翌27年(1894年)12月に法典調査会委員に就任[1][3]

明治30年(1897年)4月にドイツ公使館三等書記官となってからは法典調査会を離れ外国勤務となり、翌31年(1898年)12月に二等書記官に昇格、明治32年(1899年)3月にオランダ公使館へ転勤、明治36年(1903年)3月にオーストリア公使館へ異動、12月に一等書記官となった[1][2][3]。明治45年(1912年)4月に大使館参事官、大正4年(1915年)4月にシャム特命全権公使に任命されタイへ赴任、大正11年(1922年)3月にルーマニア特命全権公使に異動して翌12年(1923年)まで活動した。

帰国後の大正13年(1924年)4月に辞任、故郷の長府へ戻り病気療養に努め、昭和3年(1928年)に脳溢血で死去。享年65歳[1][2][3]

栄典

[編集]
位階
  • 大正13年(1924年):従三位
勲章等
外国勲章佩用允許

子孫

[編集]

明治26年(1893年)12月に伊藤博文の三女朝子と結婚、一人娘の清子を儲けた。子孫は以下の通り。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 日本評論社、P63。
  2. ^ a b c 吉田、P185。
  3. ^ a b c 井関、P216。
  4. ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
  5. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
  6. ^ a b c d e f 人事興信録、フ42。

参考文献

[編集]