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藤堂高睦

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藤堂 高睦
藤堂 高睦像
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文7年閏2月4日1667年3月28日
死没 宝永5年10月9日1708年11月20日
改名 正助・庄助(幼名)→高政→高近→高睦
戒名 大亨院殿独山高慎権大僧都
墓所 三重県津市の寒松院
三重県伊賀市の上行寺
官位 従四位下和泉守、侍従
主君 徳川綱吉
伊勢国津藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高次
母:平井徳右衛門の娘
養父:藤堂高久
兄弟 高久高通高堅大沢基恒高睦、娘(京極高和正室)、娘(安藤重之正室)、娘(専修寺堯円室)、娘(石川昌能正室)、娘(井伊直武正室)
正室:於義(小笠原忠雄の娘)
側室:青松院(岡部休心の娘)
養子:高敏
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藤堂 高睦(とうどう たかちか)は、伊勢国津藩の第4代藩主。藤堂家宗家4代。

生涯

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貞享2年(1685年)10月7日、先代藩主で兄の高久に嗣子がなかったため、その養嗣子となる。同年10月13日、将軍徳川綱吉御目見する。同年12月28日、従四位下・大学頭に叙任した。元禄16年(1703年)6月10日、高久の死去により跡を継いだ。同年12月21日、侍従に任官する。

藩主を継いだ年、江戸では元禄地震により藩邸が崩壊し、さらに4年後には東海地方などに甚大な被害をもたらした宝永地震宝永大噴火が起こって藩内が大被害を受けるなど、治世は多難を極めた。そのため藩政改革を断行し、藩政の引き締めや奉行制度、家老制度、側用人制度の見直しを行なっている。

藤堂高睦の墓(津市寒松院)

高睦には2男1女がいたが全て早世したため、宝永5年(1708年)10月9日に高睦が42歳で死去した後は、支藩久居藩から迎えた養嗣子の高敏が跡を継いだ。

系譜

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