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藤原豊沢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原豊沢
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 不詳
死没 仁和3年8月16日887年9月7日
官位 従四位上陸奥守
主君 仁明天皇文徳天皇清和天皇陽成天皇光孝天皇
氏族藤原北家魚名流
父母 父:藤原藤成?、母:鳥取業俊の娘
兄弟 豊沢季雄貞宗春雄秋雄豊雄宗雄澤雄山雄藤原氏宗
鳥取豊俊の娘
村雄
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藤原 豊沢(ふじわら の とよさわ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。『尊卑分脈』などの系図では藤原北家伊勢守藤原藤成の子とされる。秀郷流藤原氏の祖。官位従四位上陸奥守

経歴

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下野少掾に任ぜられて押領使となり[1]、その職務は代々太田氏小山氏に至る子孫にまで受け継がれた[2]

承和7年(840年従五位下天安2年(858年従四位上へと昇進。

仁和3年(887年)8月16日、卒去。

出自

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彼は政権中央での権力獲得を目指さなかった。父の藤成が任期後に去った後も下野に残り、史生を務めていた母方の鳥取氏との関係を緊密にするなどして、地方豪族としての権力を築いたと見る説がある[3]

しかし、父とされる藤成の系譜上の位置づけは魚名の子とする説のほか、藤原房前の子とする説、藤原良相の子とする説があって系譜が安定していない。また、魚名から藤原秀郷までわずか五代で二百年が経過しており、虚妄なることは明白とする指摘もある。この説では下野国の鳥取氏が藤原氏に仕え、その系譜を冒したものであるとされる[4]。また、藤成は下野国での活動が史料で確認できず、その子とされる藤原豊沢以降の歴代も六国史などの史料に確認できない。

官歴

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『田原族譜』、『下野国誌』、『皆川氏系図[5]』による。なお『尊卑分脈』には「備前守従四位上」との官位が見える。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『吾妻鏡』承元3年12月15日条
  2. ^ 『吾妻鏡』建長3年12月28日条
  3. ^ 藤原秀郷 : 源平と並ぶ名門武士団の成立 2018, p. 23.
  4. ^ 太田亮 1944, p. 3261.
  5. ^ 藤原秀郷 : 源平と並ぶ名門武士団の成立 2018, p. 20.

参考文献

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  • 山士家左伝 編『田原族譜』東明会、1883年9月。 NCID BA85281841https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780477 
  • 河野守弘 編『下野国誌. 巻之11』佐藤三一郎、1893年10月。 NCID BB19199224https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763936 
  • 太田亮 編『姓氏家系大辞典.第五巻』国民社、1944年8月。 NCID BN08854173 
  • 野口実 編『伝説の将軍 藤原秀郷』吉川弘文館、2001年12月。ISBN 9784642077798NCID BA55299699 
  • 栃木県立博物館 編『藤原秀郷 : 源平と並ぶ名門武士団の成立』栃木県立博物館、2018年10月。ISBN 9784887581005NCID BB2712375X 
  • 宝賀寿男 編『毛野氏 東国の雄族諸武家の源流(古代氏族の研究 17)』青垣出版、2021年3月。ISBN 9784434286230NCID BC05816658