葛野藩
葛野藩(かずらのはん)は、越前国丹生郡下糸生村(現在の越前町下糸生)の葛野に陣屋を置いて、江戸時代中期に短期間存在した藩。1697年、紀州徳川家の松平頼方(後の8代将軍徳川吉宗)に3万石の領知が与えられて成立したが、1705年に頼方が紀州藩を継いだために廃藩となった。同時に成立した頼方の兄・頼職の高森藩と同様に、紀州藩から派遣された少数の家臣によって領知の管理が行われており、当時は地元で「紀州領」と認識されていた[1][注釈 1]。
歴史
[編集]元禄10年(1697年)4月11日、5代将軍徳川綱吉が紀州藩邸を訪問した際[3]、紀州藩2代藩主徳川光貞の三男・松平頼職(18歳。後の紀州藩4代藩主徳川頼職)と、四男・松平頼方(14歳。後の8代将軍徳川吉宗)にそれぞれ越前国内で3万石ずつが与えられ、大名として取り立てられた[1][注釈 3]。
兄の頼職に与えられたのは丹生郡内63か村[1](高森藩)、弟の頼方に与えられたのは丹生郡・坂井郡内45か村である。頼職・頼方に与えられた領知を検分するため、紀州藩から神谷与一右衛門[注釈 4]と大畑才蔵[注釈 5]が派遣され、両名は丹生郡笹谷村(現在の福井市笹谷町)と北山村(現在の越前市北山町)を拠点として、7月から8月にかけて巡見を行った[1]。その報告に基づき、頼方領の陣屋[注釈 6]は下糸生村の一地区(垣内。枝郷[2]・枝村[6]と説明される)である葛野に置くことが決定された[1]。
宝永2年(1705年)6月、頼職が本家である紀州徳川家の家督を継ぐことになり、高森藩は廃藩となった[1][7](高森藩には同年10月に松平宗長が2万石で入る[8])。『角川地名大辞典』によれば、旧高森藩領のうち1万石が頼方に加増され、葛野藩は都合4万石となったとあるが[7]、『福井県史』によれば加増はなく、葛野藩は3万石のままである[注釈 7]。紀州藩主となった頼職も同年9月に死去し、頼方が紀州家の家督を継ぐこととなった。これにより葛野藩は廃藩となった。『徳川実紀』では「紀伊主税頭頼方朝臣宗家をつがれしかば、願たまふまゝに、これまでの所領三万石幷に青山の邸地収公せらる」とある[9]。
領地
[編集]分布
[編集]葛野藩の領地は以下の通り[7]。
葛野
[編集]この周辺は中世に「糸生郷」と呼ばれた地域で[10][11]、付近には泰澄ゆかりの寺とされる天台宗の古刹・越知山大谷寺が所在する[10][12]。
葛野藩の廃藩後も、葛野陣屋は旧葛野藩領を含む周辺の幕府領を管轄するため、享保5年(1720年)まで存続した[1]。藩領時代から合わせて20年あまりにわたって陣屋が所在し役人が駐在していたことからは、物資供給や奉公人などの需要も生じることとなり、葛野地区は周辺の村よりも商人や職人の多い「町」的な姿になったという[2]。
吉宗が将軍となっていた享保5年(1720年)、越後村上藩主であった間部詮言が越前国に移されて鯖江藩が立藩された際[1][注釈 8]、葛野陣屋のある下糸生村周辺は鯖江藩領となった[注釈 9]。葛野陣屋代官の小泉市太夫は管轄下の村(今立郡74か村と丹生郡14か村)を鯖江藩領の一部として引き渡した[13]。
陣屋跡は現在は葛野神社となっており、領域の隅に葛野陣屋跡座標: 北緯35度59分29.227秒 東経136度05分45.079秒 / 北緯35.99145194度 東経136.09585528度を記念する小さな石碑が建っている。
政治
[編集]藩主である頼方は領地に下ったことはなく、代官が派遣されて統治していた。公称は当初で3万石であったが、実高はそれより少なかったとされる。
葛野藩で支配にたずさわった家臣は合計14人で[注釈 10]、これは高森藩と同数である[1]。
郷村支配のあり方や年貢の収納方法については、幕府領時代のものを踏襲したとみられる[1]。
備考
[編集]- 『徳川実紀』(有徳院殿御実紀巻一の巻頭)には、頼方(吉宗)が綱吉から「領知三万石を給ひ、越前丹生の郷鯖江の地を領したまふ」と記しているが[14]、鯖江を与えられたとするのは誤りである[2][15]。
- 葛野藩領には上
天下 村・下天下村(丹生郡。現在の福井市上天下町・下天下町)があった[2](幕末期には福井藩領)。吉宗が「私は紀州にいたときに天下村を領した。これは将軍になる吉兆であった」[注釈 11]と述べたという話が、幕末期の福井藩主松平慶永の日記『真雪草子』に記されている[2]。 - のちに頼方(吉宗)が将軍になったことから、旧領では実際には領地入りしていないはずの吉宗との縁を語る様々な伝説が生じることとなった[2]。たとえば上天下村(上述)の旧家では、領内を巡察した頼方が村の名前を大層喜び、さまざまなものを拝領したと伝えられている[2]。丹生郡笹谷村(現在の福井市笹谷町)では、頼方が村に仮館を設けて葛野に移るまで滞在したと伝えている[2]。
- 葛野神社が所蔵している木像は、頼方(吉宗)の像とされる。ただし、『越前国名蹟考』では紀州藩祖である徳川頼宣の像としており[2]、いつの頃からか吉宗のものとする伝承に置き換わったようである。1894年(明治27年)の『神社明細帳』には「徳川吉宗木像」として載せられている[2]。
歴代藩主
[編集]- 葛野松平家
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 当時の地元の文書では、頼方領を指して「紀州様御領」と呼ぶことが最も多く、次いで「松平主税頭様御領分」が多い[2]。
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ それ以前も頼職と頼方には2人同時で御目見や叙位等が行われている。元禄9年(1696年)4月14日に江戸城で綱吉に御目見し[4]、同年12月11日にともに従四位下左近衛少将に叙された(頼職は内蔵頭、頼方は主税頭と称した)[5]。なお、『徳川実紀』では頼職を二男、頼方を三男として扱っている(夭折した二男の次郎吉が数えられていない)。
- ^ 頼職から代官に任命された人物[1]。
- ^ もとは紀伊国伊都郡学文路村(現在の和歌山県橋本市)の庄屋であるが、優れた灌漑技術者・地方巧者として元禄9年(1696年)に紀州藩の家臣に登用された[1]。
- ^ 頼方は四品ではあったが城主大名としては認められておらず、無城(陣屋)大名であった。
- ^ 『福井県史』では、宝永2年5月「頼職が本藩を継ぎ高森藩は廃された」、9月「頼職も死去したので、頼方が和歌山藩主を継ぐことになり、葛野藩も廃藩となった。同藩領三万石と高森藩領のうち一万石は幕府領」となった、10月「高森藩領の残り二万石は〔…中略…〕本庄(松平)宗長に与えられた」と記している。
- ^ 間部家は徳川家宣に信任されて幕政を主導した側用人間部詮房の家である。吉宗が将軍に就任すると間部詮房は失脚して上野高崎から村上に移され(「左遷」とされる)、詮房の跡を継いだ詮言がさらに実質的減封の上に家格を下げられる転封を命じられた。鯖江藩参照。
- ^ 『旧高旧領取調帳』によれば、上糸生村・下糸生村は幕末・廃藩置県まで鯖江藩領であった。
- ^ 宿老2人、代官1人、郡奉行2人、勘定役3人、地方手代7人、奉行組1人、出入同心9人、医師1人、勝手役2人[1]。
- ^ 織田文化歴史館が引くところによれば、原文は「我者紀州ニありし時、天下村を領したり全ク此将軍となるの吉兆なり」という[2]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m “第一章>第一節>三>高森藩と葛野藩”. 『福井県史』通史編4 近世二. 2022年5月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l “陣屋”. 織田文化歴史館. 2022年5月13日閲覧。
- ^ 『常憲院殿御実紀』巻第三十五・元禄十年四月十一日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第四編』p.559。
- ^ 『常憲院殿御実紀』巻第三十三・元禄九年四月十四日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第四編』p.525。
- ^ 『常憲院殿御実紀』巻第三十四・元禄十年十二月十一日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第四編』p.559。
- ^ “下糸生村(近世)”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年5月13日閲覧。
- ^ a b c “葛野藩”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年5月13日閲覧。
- ^ 『文昭院殿御実紀』巻第四・宝永六年十二月廿六日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第五編』p.75。
- ^ 『常憲院殿御実紀』巻第三十五・宝永二年十月廿三日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第四編』p.863。
- ^ a b “第一章>第四節>一 越前の荘園・国衙領と地頭・御家人>丹生郡”. 『福井県史』通史編2 中世. 2022年5月13日閲覧。
- ^ “糸生郷(中世)”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年5月13日閲覧。
- ^ “大谷寺”. 織田文化歴史館. 2022年5月13日閲覧。
- ^ “第一章>第一節>一 鯖江藩の成立>間部氏の入封”. 『福井県史』通史編4 近世二. 2022年5月13日閲覧。
- ^ 『有徳院殿御実紀』巻第一・巻頭、経済雑誌社版『徳川実紀 第五編』p.460。
- ^ 福井県立図書館(回答). “『南紀徳川史』という資料が見たい。”. レファレンス協同データベース. 2022年5月13日閲覧。