興津 (砲艦)
興津 | |
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船団護衛中の「興津」 (1945年) | |
基本情報 | |
建造所 | Cantieri Navali Riuniti社アンコーナ造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 砲艦[1] |
母港 | 佐世保[2] |
艦歴 | |
起工 | 1925年 |
進水 | 1927年5月22日[3] |
竣工 | 1927年[4][5] |
就役 | 1927年5月22日[要出典] |
除籍 | 1945年9月30日[4] |
要目(整備完成時[4]) | |
排水量 | 最終時:925.0トン[6] |
基準排水量 | 約700英トン |
全長 | 62.5m[6] |
垂線間長 | 62.18m |
最大幅 | 8.69m(8.7m[6]) |
吃水 |
2.60m 最終時常備:3.18m[6] |
ボイラー | ヤーロー式重油専焼水管缶 2基[6] |
主機 | 直立三段レシプロ機関 2基 |
推進 | 2軸 |
出力 | 1,500馬力 |
速力 |
13.7ノット 最終時:13.4ノット[6] |
燃料 |
重油:75トン 最終時:重油145.0トン[6] |
乗員 |
日本海軍編入時定員:99名[7] 1945年5月31日総員:153名[8] 最終時乗員:119名[6] |
兵装 |
40口径三年式8cm単装高角砲 1門 25mm連装機銃 2基、同単装 6挺 爆雷36個 最終時[6] 40口径三年式8cm高角砲 2門 25mm機銃 連装1基 単装8挺 または連装2基、単装4挺[9] 九四式爆雷投射装置 2基 機動投下機 2基[9] 二式爆雷 |
レーダー |
最終時 22号電探[10] 13号電探[10] E27電波探知機[6] |
ソナー |
最終時[6] 九三式探信儀一型 1組 九三式水中聴音機二型甲小艦艇用 1組 |
興津(おきつ) [11] は、日本海軍の砲艦[1]。 本艦の前身はイタリア海軍のアツィオ級敷設艦「レパント (Lepanto)」で、 本艦はこれを接収したものである。 艦名は都市景勝名で、現在の静岡県静岡市清水区に景勝地「興津」がある[5]。
艦歴
[編集]レパント
[編集]「レパント」はアンコナのコンティエリ海軍工廠で建造され、1927年5月22日に進水している[3]。1933年(資料によっては34年や35年とも)に上海に到着後は砲艦として使用された。 イタリアの降伏に伴い、1943年(昭和18年)9月9日に上海で自沈した[3]。
興津
[編集]1943年11月8日に日本海軍が浮揚し、1944年(昭和19年)3月1日に日本海軍の軍艦籍に編入されて「興津」と命名された[11][12]。砲艦に類別[1]。佐世保鎮守府籍[2]で支那方面艦隊上海根拠地隊に所属[12]。 江南造船所で艤装改装や修理工事が行われた[13]。 改装工事では、艦上の構造物は一度撤去されて新たに作られたものに置き換えられた[12]。 艦橋が縮小されその前方に25mm機銃台を設置、前檣を三脚檣になる、など改造された[4]。 5月4日、工事完了後の速力公試の際に「興津」と曳船「鷹丸」との衝突事故が発生した[12]。「鷹丸」が「興津」の写真撮影を行っていた際に「興津」に接近しすぎたことで衝突されて沈没し、「鷹丸」の乗組員は「興津」のカッターによって7名が救助されたが船長以下3名が行方不明となった[14]。「興津」の損傷は軽微であった[15]。
5月14日上海を出港し単独訓練、21日上海着[13]。 5月25日上海を出港し哨戒任務、30日上海着[13]。 6月5日上海出港し船団護衛任務、9日基隆着、12日基隆発、14日上海に帰着した[13]。 6月15日より江南造船所で改造修理を行った[13]。 6月24日上海を出港し船団護衛、29日高雄着、7月3日高雄発、8日上海に帰着した[13]。 以降「興津」は上海・台湾間で船団護衛に従事した[16]。10月2日、佐世保入港[16]。佐世保海軍工廠で九三式水中探信儀が装備された[16]。また、艦長が盲腸炎で入院となり、代理が置かれることとなった[16]。10月1日、軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された[17]。 10月9日佐世保を出港し船団護衛、13日上海着[13]、 その後は中国沿岸で船団護衛に従事した[16]。12月18日に修理のため江南造船所で入渠[16]。翌日爆撃を受け「興津」には被害はなかったというが、船渠に被害があり、「興津」は楊樹浦工場に移動[18]。そこで、電波探知機が装備された[10]。
1945年
[編集]1945年(昭和20年)2月に肱岡虎次郎少佐が艦長となったが、肱岡の鹿児島弁には通訳が必要であったという[10]。 「興津」は引揚者を乗せたモ七〇五船団を上海から護衛して4月27日に佐世保到着[10]。 佐世保海軍工廠第三船渠に入渠し[19][注釈 1]、 二二号電探と一三号電探が装備された[10]。 5月3日出渠、11日出港し震洋隊員を輸送、15日青島着、17日青島発、18日上海着[13]。 5月21日上海を出港し船団護衛、22日青島着、27日青島発、29日上海に到着した[13]。 5月31日揚樹浦船渠岸壁に横付け、修理を行った[13]。 6月5日上海を出港して以後船団護衛を行った[13]。 7月17日、「興津」は上海での対空戦闘でB-25を1機とP-51を3機撃墜したという[10]。 「興津」は上海で終戦を迎えた[20]。
戦後
[編集]その後に中華民国に接収され国府海軍の「咸寧」(Hsienning[4])[21]となった。 1945年9月30日「興津」は(日本海軍砲艦籍から)除籍[13]、 当時の混乱から除籍が遅れ、約半月間は日本艦籍にありながら国府管理下にあるという矛盾が生じた[4]。 「咸寧」は1950年6月に米軍式装備とし、3インチ砲3門、40mm機関砲2門、20mm機関砲4門となった。1956年除籍。
艦長
[編集](注)1944年10月1日以降は「砲艦長」。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 伊達久「『砲艦』行動年表 興津」#写真日本の軍艦第9巻p.221によると4月25日佐世保着、27日入渠。
出典
[編集]- ^ a b c #自S19.1至19.7内令/昭和19年3月(1)画像1、昭和19年3月1日内令第368号『軍艦、砲艦ノ部中「鳴海」ノ下二「、興津」ヲ加フ』
- ^ a b #自S19.1至19.7内令/昭和19年3月(1)画像17、昭和19年3月1日内令第389号
- ^ a b c 「レパント」の後身「興津」から中国海軍「咸寧」に至る全足跡、151ページ
- ^ a b c d e f #日本海軍特務艦船史(1997)p.94
- ^ a b #銘銘伝(2014)pp.232-233、興津
- ^ a b c d e f g h i j k #勢多引渡目録画像4-5、中支部隊所属艦艇要目一覧表
- ^ #S19.3.31内令提要(定員)原稿1/第52表の5~第77表の2の2画像7、昭和19年3月1日内令員第203号改定、士官7人、特務士官2人、准士官1人、下士官23人、兵66人。
- ^ #戦時日誌(2)安宅・興津画像42-43、興津戦時日誌、人員の現状(昭和20年5月31日)
- ^ a b #興津引渡目録画像2
- ^ a b c d e f g 「レパント」の後身「興津」から中国海軍「咸寧」に至る全足跡、156ページ
- ^ a b #S19.1-6達/3月(1)画像1、昭和19年3月1日達第56号『大東亞戦争中捕獲セル伊國砲艦「レバンド」を左ノ通命名ス 軍艦 興津(オキツ)』
- ^ a b c d 「レパント」の後身「興津」から中国海軍「咸寧」に至る全足跡、152ページ
- ^ a b c d e f g h i j k l 伊達久「『砲艦』行動年表 興津」#写真日本の軍艦第9巻p.221
- ^ 『江南造船所』155-156ページ
- ^ 「レパント」の後身「興津」から中国海軍「咸寧」に至る全足跡、153-154ページ
- ^ a b c d e f 「レパント」の後身「興津」から中国海軍「咸寧」に至る全足跡、154ページ
- ^ #S19.9.S19.10秘海軍公報/10月(1)画像12、昭和19年10月1日内令第1130号
- ^ 「レパント」の後身「興津」から中国海軍「咸寧」に至る全足跡、155-156ページ
- ^ #戦時日誌(2)安宅・興津画像38
- ^ 「レパント」の後身「興津」から中国海軍「咸寧」に至る全足跡、157ページ
- ^ 『真実の艦艇史』158頁。
- ^ 「昭和19年3月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1391号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096900
- ^ a b 「昭和20年2月10日付 秘海軍辞令公報 甲 第1718号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103400
- ^ 「昭和19年10月10日付 秘海軍辞令公報 甲 第1615号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101400
- ^ 「昭和19年11月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1643号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101900
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 「3月(1)」『昭和19年1月~6月 達』、Ref.C12070124300。
- 「昭和19年3月(1)」『自昭和19年1月 至昭和19年7月 内令』、Ref.C12070194700。
- 「海軍定員令/第52表の5~第77表の2の2」『昭和19年3月31日現在 内令提要別冊(定員関係) 追録第1号原稿』、Ref.C18010143600。
- 「10月(1)」『昭和19年9月.昭和19年10月 秘海軍公報』、Ref.C12070502900。
- 「昭和20年2月~昭和20年6月 砲艦 須磨.安宅.興津.鳥羽.戦時日誌(2)」『昭和20年2月~昭和20年6月 砲艦 須磨.安宅.興津.鳥羽.戦時日誌』、Ref.C08030765000。
- 「現有品目録 砲艦勢多」『支那方面艦隊引渡目録 14/17』、Ref.C08010874700。
- 「現有品目録 砲艦興津」『支那方面艦隊引渡目録 14/17』、Ref.C08010875200。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。全八六〇余隻の栄光と悲劇&rft.aulast=[[片桐大自]]&rft.au=[[片桐大自]]&rft.date=2014-04&rft.pub=潮書房光人社&rft.isbn=978-4-7698-1565-5&rfr_id=info:sid/ja.wikipedia.org:興津_(砲艦)">
- 『日本海軍特務艦船史』 世界の艦船 1997年3月号増刊 第522集(増刊第47集)、海人社、1997年3月。
- 田村俊夫「「レパント」の後身「興津」から中国海軍「咸寧」に至る全足跡」『 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 51 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年。ISBN 4-05-604083-4、150-163ページ
- 雑誌『丸』編集部/編『写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II』光人社、1990年4月。ISBN 4-7698-0459-8。
- 江南造船所史刊行会(編)『江南造船所 歴史と思い出』江南造船所史刊行会、1973年
外部リンク
[編集]- 中國軍艦博物館 咸寧本艦の説明(中国語)。「咸寧」時代の写真がある。