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細川頼貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
細川頼貞
時代 鎌倉時代後期
生誕 不明
死没 建武2年(1335年7月
別名 小四郎、八郎四郎、義阿(法名)、長興寺(号)
幕府 鎌倉幕府
氏族 細川奥州家
父母 父:細川俊氏、養父:細川義季
兄弟 公頼頼貞
顕氏直俊定禅皇海
養子:繁氏
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細川 頼貞(ほそかわ よりさだ)は、鎌倉時代後期の武士細川奥州家の祖であり、現代まで続く肥後細川氏の家系上の祖。

出自

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細川氏は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の庶流。

略歴

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三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)出身。幼少時に曾祖父・細川義季の養子になったという[1]

太平記』によれば、建武2年(1335年)7月の中先代の乱の際、病床に臥していた頼貞が敵に立ち向かい切腹したという。一方、『梅松論』では、相模国河村山にて湯治していた頼貞の許に息子・顕氏から味方敗走のため上洛を勧める使者が派遣されたが、足手まといになるのを嫌った頼貞は、使者の前で自害したという。『尊卑分脈』も河村山で自害とし、『系図纂要』は建武2年7月20日、河村山で討死としている。いずれにしても、中先代の乱の最中に頼貞が死亡したのは間違いないようである。

脚注

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  1. ^ 『系図綜覧』

参考文献

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