紀元前278年
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紀元前278年(きげんぜん278ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスとクィントゥス・アエミリウス・パプスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元476年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前278年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]セレウコス朝
[編集]- ギリシアで敗れた後、ガリア人は小アジアに移動した。セレウコス朝の王アンティオコス1世は、ガリア人との主要な戦いに勝利し、"Soter"(ギリシア語で「救世主」)の称号を名乗った。ガリア人は「ガラティア」に定住し、年ごとに2000タレントをセレウコス朝に納めた。
- アンティゴノス2世は、アンティオコス1世と和平を結んだ。その後、アンティゴノス2世の外交政策は、セレウコス朝との友好関係を基調とするものとなった。
- ニコメデス1世がビテュニア王国の最初の王となった。彼はニコメディアの街を創設し、この街はすぐに大いに繁栄した。
シチリア
[編集]- カルタゴ軍は、シラクサとアグリジェントの間の争いに介入する機会を得て、シラクサを包囲した。シラクサはピュロスに支援を求め、ピュロスは軍を送った。
- ピュロスの軍は、シラクサに到着すると、カルタゴ軍との戦いに勝利した。ピュロスはマルサーラを除くシラクサのほぼ全土を征服した。
- ピュロスはシチリアの王となることを宣言した。彼は息子のヘレノスにシチリア王国を、もう1人の息子アレクサンドロス2世にイタリアを継がせようと計画した。
中国
[編集]- 秦の白起が楚を攻撃し、首都の郢を陥落させ、夷陵を焼いた。楚の頃襄王は北東に逃れて、陳に遷都した。秦は郢に南郡を置き、白起を武安君に封じた。
- 楚の屈原は郢の陥落を悲しんで、「哀郢」の詩を書き、汨羅に入水した。
誕生
[編集]→「Category:紀元前278年生」も参照
死去
[編集]→「Category:紀元前278年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典