第十二号掃海艇 (2代)
艦歴 | |
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計画 | 昭和12年度計画[1](③計画) |
起工 | 1938年5月28日[1] |
進水 | 1939年2月18日[1] |
竣工 | 1939年8月15日[1] |
その後 | 1945年4月5日雷撃により沈没[1] |
除籍 | 1945年5月25日[1] |
性能諸元(竣工時) | |
排水量 | 基準:630t 公試:738t |
全長 | 72.5m |
水線長 | 71.3m |
全幅 | 7.85m |
吃水 | 2.60m |
主缶 | ロ号艦本式罐・石炭重油混焼 2基 |
機関 | 艦本式オールギヤードタービン 2基 2軸推進 3,850㏋ |
燃料 | 石炭 118t 重油 48t |
速力 | 20kt |
航続距離 | 14ktで2,000海里 |
乗員 | 103名 |
兵装 | 45口径三年式12cm単装砲 3基 25mm連装機銃 1基 爆雷 36個 掃海具 |
第十二号掃海艇(だいじゅういちごうそうかいてい)は、日本海軍の掃海艇。第七号型掃海艇 (3代)の6番艇。
艦歴
[編集]1938年(昭和18年)5月28日、石川島造船所で起工[1]。同年9月20日、掃海艇に類別[2]。1939年(昭和14年)2月18日進水。同年8月15日に竣工。佐世保鎮守府籍に編入[3]。
1941年(昭和16年)4月10日に第三艦隊が新編された[4]。この艦隊は第十六戦隊、第十七戦隊、第五水雷戦隊、第十二航空戦隊、第一根拠地隊、第二根拠地隊からなり、「第十二号掃海艇」は第一根拠地隊の第二十一掃海隊に所属していた[5]。
太平洋戦争緒戦では比島部隊第二急襲隊の一隻としてフィリピンのビガン攻略に参加した[6]。第二急襲隊は上陸部隊を乗せた船団を護衛して1941年12月7日に馬公から出撃[7]。12月10日に上陸が行われた[7]。同日、空襲で第二十一掃海隊の「第十号掃海艇」が沈没した[8]。
次いで「白鷹」を除く第一根拠地隊は軽巡洋艦「長良」などと共に第四護衛隊を編成し、ラモン湾上陸作戦に参加した[9]。上陸は12月24日から行なわれた[10]。
12月26日に比島部隊の大半は蘭印部隊となった[11]。第二十一掃海隊は軽巡洋艦「神通」などとともに東方攻略部隊の第二護衛隊としてメナド攻略に参加した[12]。攻略部隊は1942年1月9日にマグナガ湾より出撃[13]。1月11日にメナド、ケマへの上陸が行われた[14]。「第十二号掃海艇」はメナド攻略の船団護衛に従事した[3]。同日、第二十一掃海隊はバンカ泊地の掃海を行った[14]。
1月14日にモルッカ海で潜水艦30隻発見との報告があり、第十五、十六駆逐隊と第二十一掃海隊による掃討が行われたが何も見つからず、潜水艦発見の報告の大半は鯨を誤認したものとされた[15]。
1月21日よりケンダリー攻略作戦が行われ、第二十一掃海隊も参加した[16]。攻略部隊は1月21日にバンカ泊地から出撃し、1月24日に上陸が行われた[17]。
次いでアンボン攻略に参加。第二十一掃海隊は第十五駆逐隊第一小隊とともに1942年1月28日にケンダリーより出発[18]し、1月30日に攻略船団に合流[19]。1月30日から31日の夜に船団は目的地に到着し、上陸が行われた[20]。2月2日、第二十一掃海隊によるアンボン湾の掃海が開始されたが、「第十一号掃海艇」と「第十二号掃海艇」の防雷具展開器に機雷が触れて爆発し2隻とも航行不能となった[21]。その後さらに「第九号掃海艇」が触雷して沈没した[21]。
同年3月10日、第二南遣艦隊第二十一特別根拠地隊に編入[3]。その後、スラバヤ方面で船団護衛に従事。5月には小スンダ列島戡定作戦に参加している。同年8月12日、スラバヤに入港し応急工事を行い、同月24日に完了[3]。その後、スラバヤからマニラまで船団護衛に従事し、同年8月16日、佐世保に帰投し入渠修理を実施[3]。同年10月24日に出渠[3]。同年11月14日、スラバヤに入港[3]。その後、スラバヤを拠点に船団護衛に従事[3]。
1945年(昭和20年)4月2日、スラバヤを出港しチモール島へ輸送任務に従事[3]。同年4月5日、フローレス島西岸沖でアメリカ海軍潜水艦・ベスゴの雷撃により撃沈[1][3]。同年5月25日に除籍。
歴代艇長
[編集]- 艤装員長
- 三瓶寅三郎 少佐:1939年4月1日[22] -
- 艇長
- 三瓶寅三郎 少佐:1939年8月15日[23] - 1939年10月20日[24]
- 種子島洋二 大尉:1939年10月20日[24] - 1940年5月1日[25]
- (兼)福山強 大尉:1940年10月15日[26] - 1940年11月1日[27]
- 村上忠臣 大尉:1940年11月1日[27] - 1940年11月20日[28]
- 瀬川岩雄 予備大尉:1940年11月20日[28] - 1941年5月1日[29]
- 羽生秀一 予備大尉:1941年5月1日[29] -
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」28頁。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 101頁。◎昭和十三年九月二十日(内令八〇五) 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス |〔中略〕掃海艇第七號型ノ項中第十號ノ下ニ「、第十一號、第十二號」ヲ加フ
- ^ a b c d e f g h i j 『写真 日本の軍艦 第13巻』212-213頁。
- ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、99ページ
- ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、99-100ページ
- ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、208ページ
- ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、211ページ
- ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、213ページ
- ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、254、273ページ
- ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、276-277ページ
- ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、92ページ
- ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、159-160ページ
- ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、167ページ
- ^ a b 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、168ページ
- ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、181、183ページ
- ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、210-211ページ
- ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、211ページ
- ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、213ページには第二十一掃海隊は1月29日、第十五駆逐隊は1月27日と29日にケンダリーを引き揚げた、とある。
- ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、232、234ページ
- ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、234-235ページ
- ^ a b 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、239ページ
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第321号 昭和14年4月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075600
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第370号 昭和14年8月16日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076200
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第393号 昭和14年10月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第472号 昭和15年5月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078000
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079100
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第550号 昭和15年11月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079300
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第559号 昭和15年11月25日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079700
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第631号 昭和16年5月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081000
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0463-6
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
- 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社