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第十九号掃海艇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第十九号掃海艇
基本情報
建造所 東京石川島造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 掃海艇
級名 第七号型掃海艇(1940年12月)
第十九号型掃海艇(1942年4月)
建造費 2,660,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 第四次海軍軍備充実計画
起工 1940年9月17日
進水 1941年2月18日
竣工 1941年5月31日
最期 1941年12月10日大破着底
除籍 1945年11月30日
要目(竣工時)
基準排水量 648トン
公試排水量 755トン
全長 72.50m
水線長 71.30m
垂線間長 67.30m
最大幅 7.85m
深さ 4.65m
吃水 2.61m
ボイラー ロ号艦本式水管缶(混焼)2基
主機 艦本式高低圧型減速タービン2基
推進 2軸
出力 3,850hp
速力 20.0ノット
燃料 石炭105トン、重油 40トン
航続距離 14ノットで2,000カイリ
乗員 定員106名[注釈 1]
兵装 45口径十一年式12cm単装砲 3基
25mm機銃 連装1基
九四式爆雷投射機1基
爆雷36個
大掃海具6組
搭載艇 短艇3隻
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第十九号掃海艇 (だいじゅうきゅうごうそうかいてい)は、日本海軍の掃海艇第十九号型掃海艇の1番艇。姉妹艇とは一度も行動をともにすることなく、太平洋戦争の緒戦で大破着底し放棄された。

艇歴

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④計画の700トン型掃海艇、仮称艦名第164号艦として計画。1940年9月17日、株式会社東京石川島造船所で起工。12月10日、第十九号掃海艇と命名され、第七号型掃海艇の7番艇に定められる。

1941年2月18日、進水。4月22日、艤装員事務所を石川島造船所深川工場内に設置し事務を開始[1]。5月31日竣工し、艤装員事務所を撤去[2]。本籍を舞鶴鎮守府に定められ、第三艦隊第二根拠地隊に編入。6月11日から8月25日までの全般任務として中支、南支沿岸で監視警戒に従事。6月22日から25日まで披山島掃蕩作戦に参加し、陸戦隊の揚陸掩護に従事。7月1日、王環島坎門鎮作戦に参加。7月10日から8月6日まで第二遣支艦隊作戦指揮下に編入され、ふ号作戦(南部仏印進駐)に参加し、陸軍輸送船団の護衛と泊地の掃海に従事。8月26日、内地に帰還し、整備と訓練に従事。

11月26日、佐世保を出港。12月1日、馬公に入港。太平洋戦争の開戦時は軍隊区分菲島部隊第一急襲隊に配され、第五水雷戦隊司令官の指揮下で行動。7日、第一急襲隊はアパリ上陸船団を護衛し馬公を出港[3]。10日、「第十九号掃海艇」は掃海中カガヤン川河口にアメリカ船を発見し、その拿捕を命じられたが、同日「第十九号掃海艇」は沈没した[4]。沈没時の状況は艇長の報告によれば以下のようなものであった[5]

商船「セッテス」拿捕のためカガヤン川河口付近に投錨直後、爆撃を受けて被弾。後部弾薬庫、爆雷庫が爆発し、艦橋より前は水面上に露出した状態で着底。死者12名、行方不明者60名。また「第十六号掃海艇」より派遣の拿捕隊10名も行方不明。

乗員は敵機を目撃していないが状況から高高度からの爆撃を受けたものと考えられ、搭載していた爆雷が弾火薬庫を誘爆させ爆沈したものと推定された[6]。また、戦史叢書では米軍資料[7]には「第十九号掃海艇」の沈没に該当する記録は無い、とある[8]。この日フィリピン北部へ攻撃に向かった第14爆撃飛行隊の3機のB-17のうちの1機(コリン・ケリー・ジュニア中尉機)が爆撃したものがおそらく「第十九号掃海艇」であるとしているもの[9]もある。

1942年1月15日、舞鶴鎮守府第四予備掃海艇に定められる。4月1日、艦艇類別等級別表の掃海艇の部中に第十九号型の項が新設され、その1番艇に定められる。

1945年11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍された。

掃海艇長

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艤装員長
  1. 塚田重夫 少佐:1941年4月17日 - 1941年5月15日
  2. 山崎仁太郎 大尉:1941年5月15日 - 1941年5月31日
掃海艇長
  1. 山崎仁太郎 大尉:1941年5月31日 - 1941年9月5日
  2. 萩原旻四 大尉:1941年9月5日 - 1942年1月15日

脚注

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注釈
  1. ^ この数字は特修兵や、その他臨時増置された要員を含まない。
脚注
  1. ^ 昭和16年4月28日付 海軍公報(部内限)第3781号。
  2. ^ 昭和16年5月31日付 海軍公報(部内限)第3807号。
  3. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、204ページ
  4. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、205、207ページ
  5. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、206-207ページ
  6. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、207ページ
  7. ^ 当該章の出典としてあげられているのはHistory of U.S. Naval Operation in World War II "The Rising Sun in the Pacific" by S.E.Morison-Little, Brown and Co.とU.S. Army in world War II in the Pacific "The Fall of the Philippines" by Louis Morton-Office of the chief of Militaty Histoy Dept. of the Army
  8. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、326ページ
  9. ^ 南方進攻航空戦、265ページ

参考文献

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  • 海軍省
    • 昭和13年9月10日付 内令第756号。
    • 昭和15年12月10日付 達第288号。
    • 昭和16年5月31日付 内令第606号。
    • 昭和17年1月15日付 内令第74号。
    • 昭和17年4月1日付 内令第549号。
    • 昭和16年4月17日付 海軍辞令公報 (部内限) 第622号。
    • 昭和16年5月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第638号。
    • 昭和16年5月31日付 海軍辞令公報 (部内限) 第645号。
    • 昭和16年9月5日付 海軍辞令公報 (部内限) 第705号。
    • 昭和17年1月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第794号。
    • 昭和16年4月28日付 海軍公報(部内限)第3781号。
    • 昭和16年5月31日付 海軍公報(部内限)第3807号。
    • 掃十九機密第1号ノ4 『第十九号掃海艇支那事変第十回功績概見表』。
    • 第二根拠地隊戦時日誌。
    • 昭和16年12月20日付 第一急襲隊戦闘詳報(第五水雷戦隊戦闘詳報第一号)。
    • 内令提要「艦船要目公表範囲別表」。
  • 世界の艦船 No. 500 増刊第44集 『日本軍艦史』、海人社、1995年。
  • 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、朝雲新聞社、1969年。
  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第80巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(2) -昭和十七年六月まで-』、朝雲新聞社、1975年。
  • 丸スペシャル No. 50 日本海軍艦艇シリーズ 『掃海艇・輸送艦』、潮書房、1981年。
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
  • クリストファー・ショアーズ、ブライアン・カル、伊沢保穂『南方進攻航空戦1941-1942』伊沢保穂 訳、大日本絵画、2002年、ISBN 4-499-22770-4