矯公罕
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矯公罕 | |
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各種表記 | |
漢字・チュノム: | 矯公罕 |
北部発音: | キェウ・コン・ハン |
日本語読み: | きょう こうかん |
矯 公罕(きょう こうかん、キェウ・コン・ハン、ベトナム語:Kiều Công Hãn / 矯公罕、生年不詳 - 大宝10年(967年))は、ベトナム十二使君の一人。矯三制(キェウ・タム・チェー、ベトナム語:Kiều Tam Chế / 矯三制)とも称された[1]。『安南志略』では喬知佐(キェウ・チ・ター、ベトナム語:Kiều Tri Tá / 喬知佐)、『新五代史』では喬知祐(キェウ・チ・フー、ベトナム語:Kiều Tri Hựu / 喬知祐)と記される。
生涯
[編集]矯公羨の孫。祖父の死後呉権に仕え、呉権から峰州(現在のフート省ヴィエットチー市バックハック)刺史に任じられた。大宝8年(965年)に呉昌文が戦死すると峰州を拠点に自立し[1][2][3]、呉昌文の参謀であった呂処坪と争った[4][5]が、丁部領に敗れて滅ぼされた。