湄雲 (砲艦)
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湄雲 | |
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基本情報 | |
建造所 | (清国[1])福州船廠[2] |
運用者 |
北洋水師(清)[1] 大日本帝国海軍[3] |
艦種 | 砲艦[3] |
母港 | 佐世保(第五種時)[4] |
艦歴 | |
進水 | 明治2年(1870年頃)[5] |
竣工 | 1870年[2] |
就役 | 1895年6月5日編入(日本海軍)[6] |
除籍 | 1895年7月7日[4] |
その後 | 1895年12月清へ返還[1] |
要目 | |
排水量 | 578英トン[7][8] |
出力 | 400馬力[5] |
速力 | 8ノット[1][8] |
兵装 |
16cm瓦砲 1門[5]、または20口径安式16cm砲1門[9] 12cm瓦砲 2門[5][注釈 1] |
湄雲(びうん)は日本海軍の砲艦[3]で、 日清戦争での捕獲艦[1]。 艦名は清での艦名「湄雲(Mei Yun)」をそのまま使用した[1]。 意味は「水際の雲」。[要出典]
艦歴
[編集]1870年(明治3年)福州船廠(清)で竣工[2]。 1888年(明治21年)3月、清国軍艦として日本に来訪している[10]。
日清戦争では北洋水師に所属し[1] 1895年(明治28年)3月6日に営口で日本軍が捕獲[3]、 3月29日に営口から旅順口への回航命令が出された[11]。 6月5日に日本海軍籍に編入[3]、 6月14日には再び旅順口への回航命令が出され[12]、 7月7日に除籍され第五種(雑役船に相当)に変更された[3][4]。
軍艦としての日本海軍での在籍期間はわずか1カ月と2日だけであり、戦没などの事情(例えば信濃など)がある場合を除いて「在籍期間の短かった点においては、この艦はおそらくレコードホルダーであろう」[1]と片桐大自は述べている。
遼河河口では河床の地形が度々変わり、水路の標識として移動できる灯台船が必要だった[13]。 同年7月に湄雲をその灯台船として使用する計画が上がったが[14]、 現地で灯火設備が調達出来ない、乗員の確保が困難、河口は冬期に結氷するために船体が破損する恐れがある[15]など種々の問題があり、 計画は断念、船体は旅順口海軍根拠地司令部で保管された[16]。
湄雲の修理には巨額が必要で有り、11月8日に清に贈与が適当との意見が出され[17]、 11月17日に清国政府へ寄贈すべしと命令が出された[18]。 湄雲は12月に廃船となり清に返還された[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ #M27-28戦役戦利兵器関係書類/湄雲搭載兵器画像1によると8cm程度の砲2門で捕獲時に砲は撤去済み、砲弾と台座のみ残る。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p206。
- ^ a b c 『日本海軍史』第7巻、p227,466。
- ^ a b c d e f #海軍軍備沿革p.53
- ^ a b c #M28達/7月画像3「達第五十六號 非役艦湄雲ヲ佐世保鎮守府所管トシ第五種ニ編入セシメラル 明治二十八年七月七日 海軍大臣伯爵西郷従道」
- ^ a b c d #清国軍艦要目表p.3
- ^ #M28達/6月画像6「達第五十號 捕獲清國軍艦湄雲ヲ帝國軍艦ト定メラル 明治二十八年六月五日 海軍大臣伯爵西郷従道」
- ^ #近世帝国海軍史要(1974)p.889
- ^ a b 『日本海軍史』第7巻、pp.226-227。
- ^ #M27-28戦役戦利兵器関係書類/湄雲搭載兵器画像1。
- ^ #明治21年公文雑輯2/外国軍艦長並に士官来訪の件画像3、「一 明治二十一年三月十二日清国軍艦湄雲号ヨリ士官艦長代理トシテ来訪」
- ^ #海軍命令M27.9-M29.3/M28.3.27命47・訓39画像1-2「訓第三十九号 旅順口海軍根拠地司令長官ヘ訓令 貴官ハ威海衛ニアル捕獲砲艦ノ回航ヲ了ラバ続テ大連湾水雷隊敷設隊員ヲ営口ニ派遣シ捕獲砲艦湄雲ヲ其根拠地ニ回航セシムヘシ 明治二十八年三月二十九日 大本営」
- ^ #海軍命令M27.9-M29.3/M28.6.10命79・命86画像1「命第八十六号 旅順口海軍根拠地司令長官ヘ命令 営口ニ在ル軍艦湄雲ヲ便宜ノ方法ヲ以テ其港ニ回航セシムベシ 明治二十八年六月十四日 大本営」
- ^ #M27-28戦役日記乙M28.10/遼河口灯台船碇置の件画像28-29、臨発第2186号
- ^ #M27-28戦役日記乙M28.10/遼河口灯台船碇置の件画像25、明治28年7月10日官房第2464号の3
- ^ #M27-28戦役日記乙M28.10/遼河口灯台船碇置の件画像8-9
- ^ #M27-28戦役日記乙M28.10/遼河口灯台船碇置の件画像6-7、燈明船湄雲号ノ儀ニ付申請
- ^ #M28.8.23-1.26臨着書類庶/湄雲号本邦へ回送の申請画像2の附箋「湄雲号ハ○船ヲ以テ○地ニ特○○スモ修理ノ為メ巨額ノ金員ヲ費スニアラサレハ用ヲナス間○ト考ヘラレ候間同地ニ残シ置キ支那政府ヘ其侭贈与相成可然意見ニ候也 明治廿八年十一月八日 兵站総監部」
- ^ #M28.9.7-1.28臨発書類/湄雲寄贈画像1、臨発第2753号電報「湄雲号ハ其地ニ残シ置キ其侭清国政府ヘ寄贈スベシ 明治二十八年十一月十七日 参謀総長彰仁親王 占領地総督佐久間左馬太殿」
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所)
- 『明治21年 公文雑輯 巻2 儀制/明治21年4月24日 外国軍艦長並に士官来訪の件』。Ref.C10124282600。
- 『海軍命令 完 明治27年9月~29年3月/命第47号・訓第39号 明治28年3月27日 八重山艦長、旅順口海軍根拠地司令長官へ命令』。Ref.C11080897000。
- 『海軍命令 完 明治27年9月~29年3月/命第79号・命第86号 明治28年6月10日 佐世保鎮守府司令長官、旅順口海軍根拠地司令長官へ命令』。Ref.C11080900300。
- 『明治28年10月 「27 8年戦役日記 乙 」/大本営より 遼河口灯台船碇置の件』。Ref.C06022355300。
- 『明治27、8年 「戦役戦利兵器関係書類」/28.3.18 捕獲砲艦湄雲搭載兵器の部摘載』。Ref.C06060114700。
- 『明治28年自9月7日至1月28日 「臨発書類」/11月17日 参謀総長彰仁親王発 占領地総督子爵佐久間左馬太宛 湄雲号清国政府へ寄贈の件』。Ref.C06061370200。
- 『明治28年自8月23日至1月26日 「臨着書類 庶」/10月26日 占領地総督子爵佐久間左馬太発 参謀総長彰仁親王宛 湄雲号本邦へ回送の申請』。Ref.C06061534400。
- 『明治28年 達 完/6月』。Ref.C12070035200。
- 『明治28年 達 完/7月』。Ref.C12070035300。
- 「海軍軍備沿革」、海軍大臣官房、1921年10月。
- 海軍有終会/編『近世帝国海軍史要(増補)』 明治百年史叢書 第227巻、原書房、1974年4月(原著1938年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻(第一法規出版、1995年)
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
- 大本営海軍参謀部調書写『明治二十七八年戦役当時ニ於ケル清国軍艦要目表』。