コンテンツにスキップ

深尾重良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
深尾重良
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治3年(1557年
死没 寛永9年3月27日1632年5月16日[1]
別名 通称:湯右衛門、次郎兵衛
官位 和泉守
主君 土岐氏織田信忠信孝溝口秀勝山内一豊忠義
土佐藩
氏族 深尾家
父母 父:深尾重政、母:塚本成重の娘
安東郷氏長女
深尾重忠
養子:重忠深尾重三子)、
重昌山内康豊三男)
テンプレートを表示

深尾 重良(ふかお しげよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将土佐山内氏の家臣。土佐藩首席家老。土佐佐川初代領主。

生涯

[編集]

深尾家深尾刑部高義近江国深尾庄の地名を姓とした。

弘治3年(1557年)、誕生。重良は美濃国山県郡太郎丸城主で、初め土岐氏に、次いで織田信忠に仕えたが、本能寺の変後は信孝、さらに溝口秀勝に従った。その間しばしば武功を挙げた。

天正13年(1585年)、山内一豊が近江長浜3万石の領主になった際、招かれ200人扶持を受け客分となる。天正18年(1590年)、小田原征伐では一豊に従って山中城を攻め、武功を挙げる。一豊が掛川領主になると3千石を給わる。慶長5年(1600年)、一豊に従って土佐国に入部し、佐川1万石を給わって首席家老になる。以来、忠義の婚儀、江戸城修築、名古屋城築城、大坂冬の陣夏の陣福島正則改易など、ことごとく処す。寛永7年(1630年)、家督を養子の重昌に譲り、隠居料2千石を給わり高知に住む。

寛永9年(1632年)、死去。

系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『佐川町誌』(佐川町自治会、1919年)p.372

出典

[編集]
  • 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年
先代
-
佐川深尾家初代当主
1585年 - 1630年
次代
深尾重昌