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毛利匡芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利 匡芳
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦11年1月9日1761年2月13日
死没 寛政4年6月18日1792年8月5日
改名 政次郎、匡豊、匡芳
戒名 功篤院殿哲嵓良壽大居士
墓所 山口県下関市長府の功山寺
東京都港区高輪泉岳寺
官位 従五位下甲斐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
長門長府藩
氏族 毛利氏
父母 毛利匡敬(重就)、留楚
兄弟 好、佐代、匡満、友、勢代、治親、澄、
匡芳親著、列、多鶴、長、内藤信旭正室ら
宝珠院、鏡貞院
元義
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毛利 匡芳(もうり まさよし)は、江戸時代中期の大名長門国長府藩10代藩主。官位従五位下甲斐守

略歴

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長州藩毛利重就(元は長府藩8代藩主・毛利匡敬)の五男として江戸にて誕生する。宝暦11年(1761年)正月9日生まれとする説もある。幼名は政次郎。は始め匡豊、のち匡芳に改めた。

明和6年(1769年)、兄で先代藩主の毛利匡満が嗣子なくして若死にしたため、跡を継いだ。安永3年(1774年)12月に叙任する。天明3年(1783年)5月、父・重就による幕府への嘆願で城主格となった。節倹条例や奢侈禁止令を出して藩財政を再建し、さらに文武発展を目指して藩校敬業館を開いた。

寛政4年(1792年)6月18日、江戸にて死去し、跡を長男の元義が継いだ。法号は功篤院殿哲嵓良壽大居士。墓所は東京都港区高輪泉岳寺山口県下関市長府功山寺

系譜

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