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毛利元雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

毛利 元雅(もうり もとまさ、元禄15年(1702年) - 享保21年2月23日1736年4月3日))は、長州藩一門家老である大野毛利家の第4代当主。

兄は山内広通。正室は大江家第26代当主益田就賢(1672-1733)[1]の娘、子は毛利広圓国司就将室、福原広門室。幼名は幾之進。初名は尭登。通称は伊勢。

生涯

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元禄15年(1702年)、長州藩寄組山内広直の次男として生まれる。母は側室。宝永7年(1710年)、永代家老益田家分家益田広明の家督を相続し、益田尭登と名乗る。正徳3年(1713年)、一門家老大野毛利家3代元直死去により、その家督と遺領6074石の相続を命じられる。実父広直の正室が毛利就頼の娘で、その養育を受けていた縁での養子入りであった。後に開作(干拓)により知行6156石となる。加判役(家老)、江戸留守居家老として藩主毛利吉元宗広の2代に仕えた。享保21年(1736年)2月23日没。享年35。家督は嫡男の広圓が相続した。

参考文献

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  • 『吉見・浦・両村上略系譜』(東京大学史料編纂所収蔵)
  • 『吉見系図』(東京大学史料編纂所収蔵。)
  • 『益田隼人家譜』(東京大学史料編纂所)
    • 脇正典「萩藩寛永二年改革について」『宇部工業高等専門学校研究報告』第24号、ISSN 0386-4359宇部工業高等専門学校、1978年3月、A11-A27頁。NAID 110001004348
  • 『大江家歴世歌』(栗山家文書)岳父益田就賢は20代当主の益田元祥曾孫、岳父の兄は益田隼人就明[1])。

脚注

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  1. ^ a b 栗山展種. “大江家歴世歌と益田家歴世歌”. susakyodoshi.sakura.ne.jp. 須佐郷土史研究会. 2021年2月21日閲覧。 “益田就賢(26代)=百合亀、小四郎、右衛門、越中、玄蕃。実は益田又左衛門就武の第二子益田隼人就明の弟で元祥の曾孫にあたる。寛文12年(1672)生れ、元禄2年(1689)養子として入家。元禄3年(1690)吉就から扁諱を賜り就賢と名乗る。元禄15年(1702)~宝永5年(1708)加判役。享保17(1733)没。61才。”

関連項目

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関連文献

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発行年順。

  • 『史料編 近世1』上巻、〈山口県史〉、1996年-、NCID BN14473800
    • 36頁-「毛利氏系統略」
    • 「毛利三代実録」
    • 「毛利四代実録」
  • 『史料編 近世1』下巻、NCID BN14473800
    • 「毛利三代実録考証」
  • 原慶三「益田氏系図の研究—中世前期益田氏の実像を求めて—」『東京大学史料編纂所研究紀要』第23号、2013年3月、22-42頁。中世前期の益田一族の系図の検証。
  • 西田友広「中世前期の石見国と益田氏」『石見の中世領主の盛衰と東アジア海域世界―御神本一族を軸に―』島根県古代文化センター〈島根県古代文化センター研究論集〉、2018年3月。