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柄沢とし子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柄沢 とし子
からさわ としこ
生年月日 (1911-05-07) 1911年5月7日
出生地 北海道札幌市
没年月日 (2013-12-02) 2013年12月2日(102歳没)
死没地 富山県富山市
出身校 北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校
所属政党 日本共産党

選挙区北海道第1区 (大選挙区)→)
旧北海道3区→)
旧北海道4区
当選回数 2回
在任期間 1946年4月11日 - 1947年3月31日
1949年1月23日 - 1952年8月28日
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柄沢 とし子(からさわ としこ、本名松島 登志子と志子とも)、1911年5月7日 - 2013年12月2日)は、日本政治家労働運動家。衆議院議員日本共産党公認)を2期務めた。は日本共産党名誉幹部会委員の松島治重1994年死去)。日本で最初に女性参政権が認められた、1946年総選挙で当選した日本最初の女性国会議員(39人)の一人。共産党女性国会議員第1号としても知られる。

来歴

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北海道札幌市出身。北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)を卒業後、道庁などでタイピストをしながら日本労働組合全国協議会に参加[1]三菱美唄炭鉱などでストライキに関わるが、非合法活動により1929年以来数度検挙される。1941年に京都栄養学校卒業、1942年にゾルゲ事件によって投束、戦後日本共産党入党[2]

1946年4月10日に行われた戦後初の衆院選北海道1区から出馬し初当選を果たす。同年に行われた大日本帝国憲法改正案(日本国憲法案)の審議では、衆議院本会議において、他の日本共産党議員とともに反対の青票を投じた[3]1947年の衆院選北海道3区)では落選したものの1949年の衆院選北海道4区)で返り咲いたが、遊説中に負傷しそのまま引退を余儀なくされる[1]。以後日本共産党中央委員会婦人部に所属し後進の指導に当たる。

晩年は、夫・治重の郷里である富山県富山市内の老人保健施設に入所していたが[4]、2013年12月2日、老衰のため死去[5]。102歳没。

家族

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  • 養父・柄沢亮道 ‐ 札幌市役所職員。[2][6]
  • 夫・武田武(1904-) ‐ 福島県出身。全協札幌一般労組員。[7]
  • 夫・山名正実(1903-) ‐ 北海道出身の農民運動家。日本農民組合北海道連合会常任書記として小作争議を指導、共産党に入党し、三・一五事件で懲役5年、ゾルゲ事件で懲役12年を受けるも1920年釈放。戦後とし子と結婚。とし子の取材に自宅を訪れた婦人雑誌の女性記者に強姦未遂を起こす。[8][2][9][10]
  • 夫・松島治重(1912-1994) ‐ 日本共産青年同盟に参加したことで富山師範学校退学、その後地方紙勤務などを経て戦後日本共産党に入党し、のち幹部委員となる。[9]

脚注

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  1. ^ a b 女性国会議員第1号・95歳 松島(旧姓・柄沢)とし子さん/女性参政権行使から60年/人々に希望の灯をともす/党とともに歩んで」、2006年4月7日付「しんぶん赤旗
  2. ^ a b c 『人事興信録 第15版 上』1948「柄澤とし子」
  3. ^ 1946年(昭和21年)8月24日衆議院議事速記録、帝国議会会議録、同25日付『官報』号外。
  4. ^ 「柄沢とし子さん100歳祝う/戦後入党、初の女性代議士/富山」、2011年5月10日付「しんぶん赤旗」
  5. ^ “柄沢と志子氏死去(元共産党衆院議員)”. 時事通信. (2013年12月3日). オリジナルの2013年12月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131207101937/http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2013120300444 
  6. ^ 『北海道自治関係職員録』1930、p343
  7. ^ 嶋田正策小伝 : 小林多喜二の親友, および社会運動家倉田稔 小樽商科大学人文研究, 79, p. 37-59, 1990-03-31
  8. ^ 山名正実コトバンク
  9. ^ a b 樺太・共産党・アイヌ -水落恒彦氏に聞く(1)-今西一ほか、小樽商科大学人文研究 (2012)
  10. ^ 『戦後期左翼人士群像』増山太助、つげ書房新社、2000、p53

参考文献

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関連項目

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