松平典則
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保7年1月23日(1836年3月10日) |
死没 | 明治16年(1883年)7月24日 |
改名 | 誠丸(幼名)、典術(初名)、典則、静寿斎(号) |
別名 | 前君様(隠居後) |
戒名 | 松林院殿堯雲義典大居士 |
墓所 | 東京都豊島区の泰宗寺 |
官位 | 従四位下大和守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定 |
藩 | 武蔵川越藩主 |
氏族 | 結城松平家 |
父母 | 松平斉典、矢部氏娘・お登勢 |
兄弟 | 典常、典則ら |
妻 | 側室:佐受岐氏 |
子 |
基則ら 直侯 |
松平 典則(まつだいら つねのり)は、江戸時代後期の大名、明治前期の華族。武蔵国川越藩5代藩主。官位は従四位下・大和守。結城松平家9代。
生涯
[編集]天保7年(1836年)1月23日、4代藩主・松平斉典の四男として江戸にて誕生。長兄・典常(のりつね)が早世したのに伴って、弘化3年(1846年)11月27日に世子となり、嘉永2年(1849年)12月に名を典術(つねやす)から典則と改名した。嘉永3年(1850年)、父の死去により家督を継ぐ。幕命により、外国船の到来に備えて相模湾の警備を務め、嘉永6年(1853年)のペリー来航の際も警護を務めている。
嘉永7年(1854年)8月13日、眼病を理由に家督を養子・直侯に譲って隠居する(この時はまだ実子の益(すすむ)、鋭(さとし)、基則は生まれていなかった)。安政4年(1857年)に静寿斎と号した。その後は川越城三の曲輪で隠居生活を送りながらも、「前君様」として藩政に影響力を持った。7代藩主・松平直克(直侯の養子)が上野国前橋藩に移封になると、それに従って前橋城三の丸に移っている。明治5年(1872年)に前橋城が前橋県庁になると柿の宮へ移り、明治10年(1877年)10月に東京へ移った(この間の明治8年(1875年)に三男の基則が生まれた)。
明治16年(1883年)7月24日に死去した。享年48。翌明治17年(1884年)には三男の基則が松平直方(直克の養子)から家督を継承している。
系譜
[編集]- 父:松平斉典(1797-1850)
- 母:お登勢(矢部氏)
- 側室:佐受岐氏
- 養子
系図
[編集]江戸時代後期以後近代までの結城松平家の継承関係を、実系で示せば以下の通り。
松平斉典8 | 松平典則9 | 松平基則13 | |||||||||||||||||||||||||||||
↓ | |||||||||||||||||||||||||||||||
徳川斉昭 | 松平直侯10 | 松平八重 | |||||||||||||||||||||||||||||
↓ | |||||||||||||||||||||||||||||||
有馬頼徳 | 松平直克11 | 松平直之14 | 松平直冨15 | ||||||||||||||||||||||||||||
↓ | |||||||||||||||||||||||||||||||
前田利聲 | 松平直方12 | ||||||||||||||||||||||||||||||
- 数字は結城松平家の代数を示す。
- 点線は婚姻関係を示す。