東郷正路
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東郷 正路 とうごう まさみち | |
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生誕 |
1852年4月19日 越前国 |
死没 | 1906年1月4日(53歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1877年 - 1906年 |
最終階級 | 海軍中将 |
東郷 正路(とうごう まさみち、1852年4月19日(嘉永5年3月1日) - 1906年1月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。幼名は哲吉。
略歴
[編集]福井藩士・東郷晴霞の息子として生まれる。1870年、大坂陸軍兵学寮に入学するが中退し、1878年7月、海軍兵学校(海軍兵学寮入学、4期)を卒業し、少尉補任官。「筑波艦」、「乾行艦」、「摂津」、「龍驤」などに乗組む。さらに、「扶桑」分隊長、中艦隊司令官付、常備小艦隊参謀、海兵分隊長、「八重山」副長、「金剛」副長、海軍参謀部第2課員、「千代田」副長、「満珠」艦長などを歴任。
日清戦争時は「鳥海」艦長、「西京丸」艦長を務めた。「天城」艦長、「武蔵」艦長などを経て、海軍大学校で選科学生として学んだ。「八重山」艦長、「済遠」艦長、呉鎮守府参謀長、「八雲」回航委員長、同艦長、海兵教頭などを歴任し、1902年5月、海軍少将に進級した。海兵校長を務め、日露戦争では第6戦隊司令官として出征し、黄海海戦、日本海海戦に参戦した。1905年11月、海軍中将となり、第4艦隊司令官、将官会議議員を務めたが、1906年1月に死去。
その生前の功績により、1907年10月、嗣子東郷安に男爵が遺贈された[1]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1885年(明治18年)9月16日 - 正七位[2]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 従六位[3]
- 1896年(明治29年)2月10日 - 正六位[4]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[5]
- 1902年(明治35年)10月20日 - 正五位[6]
- 1905年(明治38年)11月30日 - 従四位[7]
- 1906年(明治39年)1月4日 - 正四位[8]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月22日 - 勲六等瑞宝章[9]
- 1894年(明治27年)11月24日 - 勲五等瑞宝章[10]
- 1895年(明治28年)9月27日 - 双光旭日章・功四級金鵄勲章[11]
- 1899年(明治32年)5月9日 - 勲四等瑞宝章[12]
- 1904年(明治37年)5月27日 - 勲三等瑞宝章[13]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、139頁。
- ^ 『官報』第701号「叙任」1885年10月30日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1896年2月12日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
- ^ 『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日
- ^ 『官報』第6754号「叙任及辞令」1906年1月8日。
- ^ 『官報』第1925号「叙任及辞令」1889年11月27日。
- ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
- ^ 『官報』第6271号「叙任及辞令」1904年5月28日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。