有島武
有島 武(ありしま たけし、1842年3月21日(天保13年2月10日) - 1916年(大正5年)12月4日)は、日本の官僚・実業家。鹿児島県出身。幼名・虎之助、武吉[1]。息子に作家の有島武郎、里見弴、芸術家の有島生馬など。なお、孫に俳優の森雅之、作曲家の山本直忠、映画プロデューサーの山内静夫、政治家の有島重武ら、曾孫に女優の中島葵、作曲家の山本直純、ファッションデザイナーのユミ・シャローらがいる。
経歴
[編集]1842年、薩摩藩の郷士・有島宇兵衛と妻・曾与(1821年 - 1894年)の長男として、薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現在の鹿児島県薩摩川内市平佐町)で生まれた[2]。祖父の有島兼次は画人[3]。1846年、宇兵衛が平佐領主北郷家のお家騒動(平佐崩れ)に巻き込まれて臥蛇島へ遠島となったため[3]、武をはじめとする家族は苦しい生活を強いられた。1856年に領主・北郷久信の近侍になる[3]。1862年、久信に伴って江戸に行き、江川太郎佐衛門の塾で砲術を学ぶ[3]。第一次長州征伐に従軍し、1865年に帰藩、鹿児島城下の洋学校「開成所」に入学し、園田孝吉、鮫島武之助、田尻稲次郎らとともに、松本弘安(寺島宗則)より英学を学ぶ[3]。
明治維新後に上京し、町田久成の世話で、1872年、大蔵省租税寮に出仕し、1877年、山内幸と結婚[1]。1878年に長男・武郎が生まれ、同年ヨーロッパへ派遣される。帰朝後は大蔵省少書記官、横浜税関長、国債局長、関税局長など財務官僚として活躍した。
1893年、大蔵大臣の渡辺国武と対立して退官[1]、実業界入りし、京都鉄道会社、日本鉄道会社、山陽鉄道、第十五国立銀行などで取締役を務めた。1903年、東京市会議員に当選して1905年まで議員を務めた。1916年、胃がんにより死去、享年75[1]。従三位勲一等に叙せられる。墓所は多磨霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
- 1885年(明治18年)11月19日 - 勲六等単光旭日章[6]
- 1889年(明治22年)
- 11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[7]
- 12月27日 - 勲五等瑞宝章[8]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日小綬章[9]
家族
[編集]- 園田孝吉の妹、寺島宗則の妻の妹、南部藩留守居役・加島七五郎(山内英邦)と今井静(久留米藩今井九一郎娘)の娘・幸と三度の結婚をしている[3]。幸(1854年生まれ)は藩主南部利恭の正室・明子の元小姓で、幸自身も再婚[1]。幼くして父を亡くし母親に育てられた苦労人で賢妻と言われた[10]。
- 幸との間に五男二女。長男・有島武郎、長女・愛(1880年 - 1970年。三笠ホテルの山本直良に嫁ぐ)、次男・有島生馬、次女・志摩(1884年 - 1989年。高木喜寛に嫁ぐ)、三男・隆三(1885年 - 1961年。父方の祖母・曾与の妹である佐藤府天の養子となる)、四男・里見弴、五男・行郎(1894年 - 1971年。プリンストン大学卒業。イリス商会、日本油脂などで働く。子に有島重武)。
家系図
[編集]有島武 | 幸 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
神尾光臣 | 山本直成 | 高木兼寛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有島武郎 | 安子 | 山本直良 | 愛 | 有島生馬 | 高木喜寛 | 志摩 | 佐藤隆三 | 里見弴 | 有島行郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀越節子 | 与謝野鉄幹 | 与謝野晶子 | 川崎守之助 | 暁子 | 高木秀寛 | 園子 | 呉茂一 | 山内静夫 | 有島重武 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森雅之 | 梅香ふみ子 | 七瀬 | 山本直正 | 山本直忠 | ユミ・シャロー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉田順江 | 中島葵 | 山本直純 | 山本正美 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山本純ノ介 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ a b c d e 里見弴・詳細年譜[リンク切れ]小谷野敦HP
- ^ 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 1008.
- ^ a b c d e f 『新薩摩学風土と人間』鹿児島純心女子大学国際文化研究センター、図書出版 南方新社, 2003
- ^ 『官報』第2112号「叙任及辞令」1890年7月15日。
- ^ 『官報』第1303号「叙任及辞令」1916年12月5日。
- ^ 『官報』第727号「賞勲」1885年12月2日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
- ^ 『官報』第7499号「叙任及辞令」1908年6月26日。
- ^ 『明治閨秀美譚』鈴木光次郎 編 (東京堂, 1892)
参考文献
[編集]- 川内郷土史編さん委員会『川内市史 下巻』川内市、1980年。
外部リンク
[編集]- 有島武の墓
- 堀江保藏「有島武の經濟策論」『經濟論叢』第55巻第5号、京都帝國大學經濟學會、1942年11月、587-596頁、CRID 1390290699818614784、doi:10.14989/131726、hdl:2433/131726、ISSN 0013-0273。