明神善秀
明神 善秀(みょうじん よしひで、生年不詳 - 1864年12月29日(元治元年12月1日))は、江戸時代後期の土佐藩上士。幼名は民之助。通称は明神源八。前諱は信貞[1]。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]土佐藩士(野根在番役・230石)明神信善(只右衛門)の嫡男として生まれる。母は真辺弘明(練馬)の姉。父の役職「野根在番役」とは安芸郡野根村(現東洋町。土佐藩領の東端)に居住して地域の支配を行う務めである。
1840年3月28日(天保11年2月25日)、土佐藩主山内豊資に惣領御目見え仰せ付けられる。
1844年4月26日(天保15年3月9日)、 土佐藩主山内豊熈の時代、亡父明神信善の跡目を相違無く下し置かれ、野根在番、父勤来の通り仰せ付けられ、右勤役中は御役料30石もそのまま下し置かれた。
黒船来航以降
[編集]1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・ペリーの率いる軍艦が浦賀沖に現れ朝野は騒然とし、土佐でも沿海岸における国防の機運が高まった。
1854年2月20日(嘉永7年1月23日)丑の下刻、ペリーの2度目の来航の際、ペリー艦隊は100発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃った[2]。備前藩はこれを威嚇射撃と解し「砲弾の一部が洲崎を警護する備前岡山藩陣地の10メートルほど手前の海中に落下した」と主張して非常召集を行い大砲5門を以って黒船に砲撃した事件が起きる。
この事件を受けて、1854年2月21日(嘉永7年1月24日)、土佐藩では、明神善秀が山内容堂より、安芸郡奉行を仰せ付けられ、異国船打払い御用を仰せ付けられた[3]。
1864年6月4日(元治元年5月1日)、当役兼外輪物・指物御用を仰せ付けられる。同年12月29日(元治元12月1日)病死。
家族
[編集]明神家は、長宗我部氏の旧臣で土佐藩の上士の家柄。家禄は200石で代々役料を30石を下し置かれ、都合230石を食んだ。幕末の当主・明神善道は馬廻役に列した。
補注
[編集]参考文献
[編集]関連項目
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