文正植
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名前 | ||||||
カタカナ | ムン・チョンシク | |||||
ラテン文字 | Moon Jung-sik | |||||
ハングル | 문정식 | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 |
1930年6月23日 日本統治下朝鮮 | |||||
没年月日 |
2006年12月25日(76歳没) 韓国 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
培材高等学校 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
当項目参照 | ||||||
代表歴 | ||||||
1956-19xx | 韓国 | |||||
監督歴 | ||||||
当項目参照 | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
文 正植 (朝鮮語: 문정식、ムン・チョンシク、1930年6月23日 - 2006年12月25日) は大韓民国のサッカー選手。サッカー指導者。
略歴
[編集]1950年および1960年代に大韓民国代表に選出され、1962 FIFAワールドカップ・アジア予選4試合などに出場した。引退後は指導者となり大韓民国代表の監督を2度 (1976年、1984年から1985年まで) 務め、蔚山現代FC (当時は現代ホランイ) の初代監督も務めた。
1994年、大分FC (現在の大分トリニータ) の監督に就任[1]。1995年に全国地域サッカーリーグ決勝大会で準優勝してジャパンフットボールリーグ昇格へチームを導いた[2]。1996年シーズン終了後に健康上の理由により大分FCの監督を退任した[3]。1997年1月、別府市より感謝状が贈られた[4]。大分FCの監督退任後は韓国に帰国して大韓サッカー協会の副会長などを務めた[5][6]。
選手歴
[編集]- Headquarters of Intelligence Detachment FC
- Counterintelligence Corps FC
- 第一毛織FC
監督歴
[編集]- 1973-1981 Korea Automobile Insurance Company FC
- 1976 韓国代表
- 1984-1986 現代ホランイ
- 1984-1985 韓国代表
- 1991-? 韓国女子代表
- 1994-1996 大分FC
脚注
[編集]- ^ 「愛称は「大分トリニティ」と決定/大分FC設立総会」 読売新聞、1994年4月9日、2015年3月30日閲覧
- ^ 「Jリーグへ官民財一体 誕生2年、はやJFL昇格 大分トリニティ」 朝日新聞、1996年2月10日、2015年3月30日閲覧
- ^ 「新監督に韓国の大物・朴景和氏 JFLの大分トリニティ」 朝日新聞、1996年12月10日、2015年3月30日閲覧
- ^ 「21人と1団体に感謝状 別府市」 朝日新聞、1997年1月22日、2015年3月30日閲覧
- ^ 「鄭夢準・国際サッカー連盟副会長が大分入り」 読売新聞、1997年2月14日、2015年3月30日閲覧
- ^ 「日韓シニア、サッカー交流 県選抜-韓国、岐阜市で対戦」 朝日新聞、2002年5月15日、2016年2月22日閲覧
外部リンク
[編集]- 文正植 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 文正植 - FIFA主催大会成績