成瀬之成
表示
成瀬之成像(白林寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長元年(1596年) |
死没 | 寛永11年10月28日(1634年12月18日) |
改名 | 於竹(幼名)[1][2]、正重[1]→之成 |
別名 | 藤蔵(通称)[1] |
戒名 | 見性院殿傳翁直心居士 |
墓所 | 千葉県船橋市宝成寺 |
官位 | 従五位下、伊豆守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠 |
藩 | 下総栗原藩主 |
氏族 | 成瀬氏 |
父母 | 父:成瀬正成、母:森川氏俊の娘[1] |
兄弟 | 正虎、之成 |
妻 |
正室:阿部正次の娘[1] 継室:片桐且元の娘(片桐孝利の養女[1]) |
子 | 内記、之虎、女子、女子(成瀬正虎養女[1]、小出英知正室[3])[1] |
成瀬 之成(なるせ ゆきなり)は、江戸時代初期の大名。下総栗原藩の第2代藩主。
生涯
[編集]慶長元年(1596年)、成瀬正成の次男として駿府で生まれる[1][4]。慶長16年(1611年)に徳川家康に初謁[1]。同年から徳川秀忠に小姓として仕え、武蔵国幡羅郡において1000石を与えられた[1]。大坂の陣にも出陣し、首1つを挙げる武功を挙げた[1]。慶長20年(1615年)閏6月21日、秀忠の参内に随行し、従五位下・伊豆守に叙任[1]。
元和2年(1616年)[1][2]ないしは3年(1617年)、父が尾張藩の附家老として犬山藩に移った際、父の下総国栗原藩領から1万4000石を分与され[1]、従来よりの1000石の知行と合わせて、之成は1万5000石を領する栗原藩主となる(分知の時期については栗原藩参照)。元和8年(1622年)、根来足軽100人を預けられる[1]。元和9年(1623年)7月の秀忠の上洛に随行[1]。同年、近江国において1000石を加増されて1万6000石となった[1][5]。また、与力として20騎を預けられた[1]。
寛永3年(1626年)より徳川家光に仕える[1]。寛永11年(1634年)、家光の上洛に随行したが、9月に病に倒れた[1]。家光は土井利勝を派遣して病気を見舞わせている[1]。同年10月28日死去、享年39[1]。長男の内記は早世しており、この年生まれたばかりの次男・之虎が跡を継いだ[1]。
墓所は千葉県船橋市の宝成寺[1][4][6]。之成の墓所には、之成死去の際に殉死した家臣3人(平井宇平次・青木左源太・藤井仁左衛門[4])も葬られている[6]。殉死者を副葬した大名の墓は珍しい[6]。
備考
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『寛政重修諸家譜』巻第九百四十八「成瀬」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.995。
- ^ a b “成瀬之成”. デジタル版 日本人名大辞典 Plus. 2024年5月4日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第九百四十八「成瀬」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.994。
- ^ a b c “大名成瀬氏と船橋”. 船橋市西図書館郷土資料室. 2024年5月5日閲覧。
- ^ “栗原藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年5月4日閲覧。
- ^ a b c “成瀬氏の墓 附 墓誌”. 船橋市. 2024年5月4日閲覧。
- ^ 『東寺町の成立と変遷』, p. 14.
参考文献
[編集]- 名古屋市蓬左文庫 編『東寺町の成立と変遷 都市の歴史景観・文化景観としての寺町』名古屋文化遺産活用実行委員会、2017年 。