成川揆
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成川 揆(なるかわ はかる[1][2][3]、安政6年10月20日(1859年11月14日)[1][2][3] - 1919年(大正8年)1月26日[1][2])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将[4]。日本海海戦時の仮装巡洋艦「信濃丸」艦長として知られる。
人物
[編集]江戸生まれ[2][注釈 1]。成川要人[注釈 2]の二男[3]。海軍大学校卒[1][2]。
1905年(明治38年)の日露戦争における日本海海戦時は仮装巡洋艦「信濃丸」の艦長だったが、哨戒中の五島列島付近でロシア海軍のバルチック艦隊を発見した[1][2]。その際に打電した「敵艦隊見ゆ」の一文は有名である。翌明治39年(1906年)に少将となる[2]。
官歴
[編集]- 1872年 (明治5年) - 海軍兵学寮入校[6]
- 1889年(明治22年)7月29日 - 海軍大学校入学(甲号2期)[4]
- 1890年(明治23年)7月30日 - 海軍大学校卒業
- 1898年(明治31年)1月22日 - 愛宕艦長[4]
- 1899年(明治32年)9月29日 - 任 海軍大佐、千代田艦長[4]
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)7月4日 - 台湾総督府海軍幕僚長[4]
- 1903年(明治36年)
- 1904年(明治37年)
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)11月30日 - 任 海軍少将、予備役[4]
栄典・授章・授賞
[編集]- 1885年(明治18年)9月16日 - 従七位[7]
- 1890年(明治23年)12月8日 - 正七位[8]
- 1895年(明治28年)4月15日 - 従六位[9]
- 1904年(明治37年)11月18日 - 正五位[10]
参考文献
[編集]登場する作品
[編集]- ドラマ
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e “成川揆”. デジタル版 日本人名大辞典 Plus. 2023年9月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g “成川 揆”. 20世紀日本人名事典. 2023年9月4日閲覧。
- ^ a b c d “成川揆 (初版[明治36(1903)年4月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2023年9月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『帝国海軍将官総覧』 太平洋戦争研究所 p209
- ^ 『千葉県市原郡誌』, p. 1231.
- ^ 届の部 兵学寮届 新生徒永嶺光篤外52名入寮差許件, レファレンスコード C09111064700, アジア歴史資料センター
- ^ 『官報』第705号「叙任」1885年11月5日。
- ^ 『官報』第2237号「叙任及辞令」1890年12月11日。
- ^ 『官報』第3535号「叙任及辞令」1895年4月16日。
- ^ 『官報』第6423号「敍任及辞令」1904年11月26日。