コンテンツにスキップ

平須賀城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
平須賀城
和歌山県
別名 平須山城[1][2]、平主山城[1][2]、平須城[3]、平祝城[2]、平柄城[1]
城郭構造 山城
築城主 伝・野辺忠房[1]
築城年 不明
主な城主 野辺氏
廃城年 大永2年(1522年)?
遺構 曲輪土塁、横、竪堀、堀切、畝状空堀群、帯曲輪[2]
指定文化財 みなべ町指定文化財
位置 北緯33度48分55.1秒 東経135度19分45.6秒 / 北緯33.815306度 東経135.329333度 / 33.815306; 135.329333座標: 北緯33度48分55.1秒 東経135度19分45.6秒 / 北緯33.815306度 東経135.329333度 / 33.815306; 135.329333
地図
平須賀城の位置(和歌山県内)
平須賀城
平須賀城
テンプレートを表示

平須賀城(へいすがじょう)は、和歌山県日高郡みなべ町西本庄(旧紀伊国日高郡)にあった日本の城山城[2]平須山城(へいすやまじょう[4])とも呼ばれる[1][4]。みなべ町指定文化財(「平須賀城跡」)[5]

概要

[編集]

南部川下流の南部平野の最奥部にある山城で、標高207メートル、比高177メートルの地点に位置した[2]

平須山[1](平主山[6])にある平須賀城は、みなべ町気佐藤[7]高田土居と共に野辺氏の居城と伝わる[8]武蔵国出身の野辺氏は、畠山政長に従い紀伊に入国したとみられ、寛正年間(14601466年)より紀伊奥郡の小守護代として活動している様子が確認できる[9]

平須賀城は早くから紀伊守護畠山氏の要害として利用されており、15世紀前半には、紀伊奥郡守護代[10]の禅久(遊佐家久)が湯河式部大輔に対し、「平祝候城」(平須賀城)に人を置いておくよう指示している[11]

15世紀中頃の畠山政長と畠山義就の家督争いの中で、広城広川町)や高田土居はその争奪戦の対象となった[12]。平須賀城もその争いの中、政長流畠山氏の拠点として活用され、永正15年(1518年)から16年(1519年)のものとされる畠山尚順(政長の子)の書状には、目良左京亮が「平守城」(平須賀城)で忠節を尽くしたことが記されている[13]

また、16世紀前半には政長流畠山氏は山城を築城・整備して平城とセットで運用していたとみられ、平須賀城も高田土居と合わせて利用されたと考えられる[14]

大永2年(1522年)、平須賀城(「南部ヘイシュ野辺城」[15])は熊野本宮勢に攻められ落城したと伝わっている(『熊野年代記』)[16]。永正17年(1520年)に、熊野衆と結んでいた畠山尚順が野辺慶景らに紀伊を追放されていることや、野辺氏の姿がこの頃から確認できなくなることから、この記述の蓋然性は高いとみられる[17]。また、発掘調査で出土した平須賀城の遺物の大半は15世紀後半から16世紀前半のもので、この落城時期と合致している[18]。その一方で、城の構造から廃城時期をより後の年代とする見方もある[19]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f 平井聖; 村井益男; 村田修三 編「平須賀城」『日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山』新人物往来社、1980年、510–511頁。全国書誌番号:80036837 
  2. ^ a b c d e f 和歌山城郭調査研究会 2019, p. 62.
  3. ^ 上南部誌編纂委員会 編『上南部誌』南部川村、1963年、72、74、865–866頁。全国書誌番号:64000571 
  4. ^ a b 平須山城跡」『日本歴史地名大系https://kotobank.jp/word/平須山城跡コトバンクより2024年1月2日閲覧 
  5. ^ 資料編”. みなべ町地域防災計画(令和3年度修正). みなべ町. p. 79 (2022年4月14日). 2024年1月2日閲覧。
  6. ^ 和歌山県日高郡 編『和歌山県日高郡誌』和歌山県日高郡、1923年、1424頁。全国書誌番号:43042987https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978627/789 
  7. ^ 和歌山城郭調査研究会 2019, p. 60.
  8. ^ 弓倉 2006, p. 172.
  9. ^ 弓倉 2006, pp. 175–180.
  10. ^ 弓倉 2006, pp. 59–61, 104.
  11. ^ 新谷 2017, pp. 12–13.
  12. ^ 新谷 2017, pp. 14–19.
  13. ^ 新谷 2017, p. 19.
  14. ^ 和歌山城郭調査研究会 2019, p. 18.
  15. ^ 弓倉 2006, p. 179; 和歌山城郭調査研究会 2019, p. 62.
  16. ^ 弓倉 2006, pp. 179–180; 新谷 2017, p. 20.
  17. ^ 弓倉 2006, pp. 179–180, 209.
  18. ^ 新谷 2017, pp. 19–20.
  19. ^ 新谷 2017, p. 20.

参考文献

[編集]
  • 新谷和之 著「紀伊国における守護拠点の形成と展開」、小谷利明; 弓倉弘年 編『南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆』戎光祥出版〈戎光祥中世史論集 第5巻〉、2017年。ISBN 978-4-86403-267-4 
  • 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。ISBN 4-7924-0616-1 
  • 和歌山城郭調査研究会 編『戦国和歌山の群雄と城館』戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ12〉、2019年。ISBN 978-4-86403-311-4