川村丈夫
2024年4月21日 | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県大和市 |
生年月日 | 1972年4月30日(52歳) |
身長 体重 |
182 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1996年 ドラフト1位(逆指名) |
初出場 | 1997年4月6日 |
最終出場 | 2008年10月5日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 1996年 |
この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銀 | 1996 | 野球 |
川村 丈夫(かわむら たけお、1972年4月30日 - )は、神奈川県大和市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球指導者。
現役時代は横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)にて先発・中継ぎ投手として活躍し、1998年シーズンには先発投手として同球団の38年ぶりセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝と日本一に貢献した。2022年シーズンからはDeNA在籍のまま神奈川フューチャードリームスの監督を務める。アトランタオリンピック野球競技の銀メダリスト。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]1990年、神奈川県立厚木高等学校3年生の時に、神奈川県高等学校野球春季大会でベスト4進出。全国高等学校野球選手権神奈川大会には第1シードで臨み、強豪私立ぞろいの厳しい状況下でエースとしてチームをベスト8まで導く大黒柱となった。準々決勝では川崎北高の河原純一と延長16回の投手戦を演じるが敗退。立教大学へ一般入試で現役合格[1]。大学時代は腰痛に悩まされたが[2]、東京六大学リーグ通算63試合登板、21勝27敗、防御率2.65、317奪三振。1993年アジア選手権・日米大学野球の両野球日本代表に選出。大学卒業後は日本石油(現:ENEOS)に入社し、日本石油硬式野球部時代の1995年には第66回都市対抗野球大会で優勝。
1996年にはアトランタオリンピック野球日本代表に選出され、日本代表の銀メダル獲得に貢献した[3]。準決勝のアメリカ戦では先発の杉浦正則をリリーフし3回1/3イニングを無失点に抑えた。また、第67回都市対抗野球大会でも2勝を挙げて日本石油硬式野球部のベスト4入りを果たし、同年の社会人ベストナインに選出された[3]。プロ野球ドラフト会議を前に、地元球団の横浜ベイスターズ[2]が早くから1位指名に名乗りを上げた一方、中日ドラゴンズ・日本ハムファイターズ[注 1]も金銭的な条件を提示[2]。横浜・日本ハムは1位指名選手として、井口忠仁(青山学院大学硬式野球部)の1位指名を狙っていた中日も2位指名を狙っていたが、本人は在京球団を希望しており、横浜を逆指名[2]。同球団から1位指名を受け、入団[3]。同年11月26日には同じく横浜を逆指名し、ドラフト2位指名を受けた森中聖雄(東海大学硬式野球部)とともに契約金1億円+出来高払い5000万円・年俸1300万円(金額は推定)で契約を結んだ[4]。
プロ入り後
[編集]1997年は球速140 km/hの直球と高い制球力から即戦力として期待され[3]、先発投手が著しく不足する中、シーズン開幕当初から先発ローテーションの一角を担い10勝7敗・147奪三振。防御率3.32の好成績を挙げる。しかし、新人王は12勝を挙げた広島東洋カープの澤崎俊和に軍配が上がった。同年のシーズンオフには年俸3,300万円[5](前年比2000万円増額)となった。
1998年は開幕投手に抜擢される。監督就任1年目の権藤博はインタビューで川村について「高校は進学校、大学も一般入試で現役合格し、自分の力で掴み取っている、あいつのインテリジェンスに賭けたから」と語っている。結果、史上3人目の1安打完封勝利を挙げる。前半戦では7月18日の広島戦までに8勝を挙げ[6]、オールスターゲームにも選出されたが、後半戦は0勝に終わった。しかし、日本シリーズでは最終戦(第6戦)で先発し、日本一に貢献[6]。同年のシーズンオフには年俸5,000万円で契約更改した[6]。
1999年は新たに習得したチェンジアップを駆使し、自己最多の17勝を挙げた[注 2]。勝利数は上原浩治(巨人)の20勝、野口茂樹(中日)の19勝[8]に次ぐリーグ3位で[9]、防御率3.00も規定投球回到達者では上原(2.09)・野口(2.65)・山本昌(中日 / 2.96)に次ぐリーグ4位だった[8]。6月には5戦全勝し、月間MVPを獲得、2年連続オールスターゲームにも選出された。同年のシーズンオフには年俸が1億円(前年比5000万円増額)に到達したが、プロ4年目での年俸1億円到達は当時、球界最速タイ記録だった[10]。
2000年は年間を通じて調子があまり良くなかったものの、先発としてシーズンを通して登板し続けた結果、リーグ最多敗戦(12敗)を記録。最終的に26試合に登板して7勝12敗、防御率5.06に終わり、同年のシーズンオフには年俸8200万円(前年比1800万円減額)で契約を更改した[11]。
2001年は序盤に2試合続けて中継ぎで大量失点し、二軍の湘南シーレックス[注 3](イースタン・リーグ)に降格する。6月に先発として一軍に復帰するものの9月以降は再び中継ぎに回ることになる。
2002年は故障により、わずか3試合の登板で未勝利に終わり、10月には背中の滑液胞炎の摘出手術を受ける。
2003年は5月6日の広島戦(横浜スタジアム)で593日ぶりの勝利を挙げたが、5勝にとどまる。
2004年はスタミナ面を考慮し、中継ぎに転向。4月は大車輪の活躍でチームを首位に押し上げた。しかし、登板過多による疲労から精彩を欠き、7月1日には一軍登録を抹消。後半戦からは復帰し、58試合に登板して防御率こそ3.07を記録したが、複数イニングに登板すると打たれることが多く、8敗を喫した。
2005年は1イニング限定の登板起用がこれまた当たり、56試合に登板して防御率は2.31を記録。しかも夏場までは防御率0点台であった。木塚敦志と共に、抑えのマーク・クルーンに繋ぐセットアッパーとしてチームの躍進に貢献し、阪神のJFKに匹敵する活躍を見せた。
2006年は二段モーション禁止によるフォーム改造の影響により、シーズン序盤は打ち込まれ、防御率も2桁の時期が続き、セットアッパーの役目も加藤武治に譲ることになった。それでも5月以降は持ち直して川村-加藤-クルーンの勝利リレーを確立。この年は木塚、加藤、クルーンと形成した救援投手陣はクアトロKと呼称された。シーズン終盤にクルーンが故障で登録抹消されると抑えの役目を任され、プロ10年目でプロ入り初セーブを挙げた。最終的に57試合に登板して防御率こそ3点台(3.86)を確保したが、この年優勝した中日を相手に大量失点するシーンが目立ち、数字以上に打たれるイメージを与えることになった。
2007年は中継ぎでの3年間にわたる登板過多気味の状況や先発投手が不足しているチーム事情を考慮し、大矢明彦新監督の意向で先発に配置転換された。しかしキャンプ中に故障し、調整不足のままシーズンを迎えることになる。何とか先発ローテーションの6番手に名を連ねたが5回未満で降板することが多く、開幕から約1か月で中継ぎに戻る。中継ぎとしてはまずまずの投球内容ではあったが、オールスター明けに調子を崩し、8月・9月と二軍落ちした。
2008年はシーズンの大半を二軍で過ごし、9月28日に同年のシーズン限りで現役引退と一部で報道され、10月1日に球団より公式に現役引退が発表された。引退の理由について本人は「投げるのが怖くなるときがあり、精神的に厳しいものがあった」と語っている。10月5日の広島23回戦(横浜)で先発登板し、先頭打者の東出輝裕を3球三振に打ち取り降板。試合後には引退セレモニーが執り行われた。
引退後
[編集]2009年シーズンは1年間、湘南シーレックス[注 3]の投手コーチを務め、山口俊の育成に貢献。2010年シーズンも1年間、スコアラーを務めた後、2011年から2012年までは2度目の二軍投手コーチ、2013年シーズンは一軍投手コーチ(ブルペン)、2014年シーズンから2015年シーズンまでは一軍投手コーチ(ベンチ)を5年間務めた。
2016年シーズンからは2年間勤務した球団職員(野球振興担当)として少年たちの野球指導を担当し[12][13]、2017年シーズンは横浜DeNAベイスターズジュニアチームの監督を務めた[14]。
2018年シーズンより3年ぶりにコーチへ現場復帰[注 4]、二軍投手コーチを務める[16]。2020年シーズンからは一軍投手コーチに異動。
2021年シーズン終了後の11月7日、2022年シーズンからベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)の神奈川フューチャードリームスで監督に就任することが発表された。DeNAからの派遣扱い[17][18]。就任3年目の2024年シーズンは4年ぶり2度目となるリーグ優勝を達成した。2024年10月3日に退任が発表された[19]。
選手としての特徴・人物
[編集]投球フォームはオーバースロー[20]。エースとして活躍した1999年はキレのあるストレートとチェンジアップ・フォークを得意とし、カーブも投げていた[20]。
- 20th Centuryの長野博とは小学生時代からの同級生。長野とは同じチームに1年間在籍した。
- 球持ちの非常によい投手であり、140km/h弱のストレートでも打者はタイミングをあわせるのに苦労した。
- クアトロKを構成していた木塚・加藤とは仲がよく、年明けの合同自主トレも厚木・大山で共に行っていた。なお、川村は以前から野村弘樹・秋元宏作とこの地で自主トレを行っていた。
- 被本塁打が多いことで知られており、引退試合後のセレモニーでも自身でネタにした。また、投手からも3本打たれている。1999年8月13日の横浜スタジアムでの巨人戦ではバルビーノ・ガルベスに満塁場外本塁打を打たれ、2001年7月31日の広島市民球場での広島戦では自身通算100本目の被本塁打を高橋建に打たれた。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1997 | 横浜 | 26 | 26 | 2 | 2 | 0 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 614 | 151.2 | 113 | 27 | 49 | 1 | 4 | 147 | 3 | 0 | 56 | 56 | 3.32 | 1.07 |
1998 | 26 | 24 | 1 | 1 | 0 | 8 | 6 | 0 | -- | .571 | 610 | 146.1 | 139 | 23 | 46 | 0 | 2 | 97 | 3 | 0 | 60 | 54 | 3.32 | 1.26 | |
1999 | 26 | 26 | 5 | 3 | 2 | 17 | 6 | 0 | -- | .739 | 743 | 183.0 | 169 | 21 | 43 | 1 | 1 | 131 | 1 | 0 | 65 | 61 | 3.00 | 1.16 | |
2000 | 26 | 26 | 1 | 0 | 1 | 7 | 12 | 0 | -- | .368 | 614 | 147.2 | 160 | 23 | 35 | 2 | 0 | 85 | 7 | 0 | 84 | 83 | 5.06 | 1.32 | |
2001 | 27 | 15 | 0 | 0 | 0 | 6 | 6 | 0 | -- | .500 | 379 | 90.1 | 94 | 8 | 29 | 3 | 0 | 49 | 2 | 0 | 43 | 42 | 4.18 | 1.36 | |
2002 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 50 | 10.1 | 15 | 2 | 5 | 1 | 1 | 6 | 0 | 0 | 8 | 8 | 6.97 | 1.94 | |
2003 | 19 | 19 | 0 | 0 | 0 | 5 | 7 | 0 | -- | .417 | 487 | 116.2 | 124 | 20 | 20 | 0 | 4 | 66 | 0 | 0 | 63 | 62 | 4.78 | 1.23 | |
2004 | 58 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 8 | 0 | -- | .333 | 335 | 82.0 | 67 | 8 | 25 | 4 | 3 | 80 | 2 | 0 | 33 | 28 | 3.07 | 1.12 | |
2005 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 6 | 0 | 30 | .500 | 285 | 70.0 | 62 | 6 | 17 | 3 | 0 | 63 | 0 | 0 | 21 | 18 | 2.31 | 1.13 | |
2006 | 57 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 3 | 22 | .500 | 249 | 56.0 | 59 | 3 | 22 | 5 | 2 | 34 | 1 | 0 | 25 | 24 | 3.86 | 1.45 | |
2007 | 35 | 5 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 7 | .750 | 238 | 55.0 | 55 | 3 | 23 | 0 | 2 | 53 | 1 | 0 | 22 | 22 | 3.60 | 1.42 | |
2008 | 9 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1 | 1.000 | 26 | 6.1 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 3 | 3 | 4.26 | 1.11 | |
通算:12年 | 368 | 145 | 9 | 6 | 3 | 71 | 64 | 4 | *60 | .526 | 4630 | 1115.1 | 1063 | 144 | 315 | 20 | 19 | 815 | 20 | 0 | 483 | 461 | 3.72 | 1.24 |
- データ出典 - 日本野球機構(NPB)[21]、ただし、WHIPは除く。
- 各年度の太字はリーグ最高
- 「-」は記録なし
- 通算成績の「*数字」は不明年度があることを示す
表彰
[編集]- 月間MVP:1回(1999年6月)
- 大和市市民栄誉賞(1996年) - アトランタオリンピック銀メダル獲得による[22]
記録
[編集]- 初記録
- 投手記録
- 初登板・初先発・初勝利:1997年4月6日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、5回2/3を1失点
- 初奪三振:同上、1回裏に鳥越裕介から
- 初完投勝利・初完封勝利:1997年8月3日、対広島東洋カープ20回戦(広島市民球場)
- 初ホールド:2005年4月2日、対中日ドラゴンズ2回戦(ナゴヤドーム)、5回裏二死に2番手で救援登板、1回1/3を1失点
- 初セーブ:2006年9月14日、対東京ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点
- 打撃記録
- 初安打:1997年4月29日、対ヤクルトスワローズ4回戦(横浜スタジアム)、2回裏にテリー・ブロスから
- 初打点:1997年8月3日、対広島東洋カープ20回戦(広島市民球場)、1回表に大野豊から右翼線へ適時二塁打
- 節目の記録
- その他記録
背番号
[編集]- 16(1997年 - 2008年、2022年 - 2024年)
- 83(2009年)
- 75(2011年 - 2015年)
- 72(2018年 - 2021年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 「ベイ快進撃の陰に川村投手コーチ 権藤氏が「知性ある」と評価」『日刊ゲンダイ』講談社、2015年5月23日。2020年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月5日閲覧。
- ^ a b c d e 『中日スポーツ』1996年10月31日第5版5頁「中日ガックリ 川村、横浜を逆指名」(中日新聞社)
- ^ a b c d 「'97プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第21巻第4号(通算:第225号 / 1997年3月号)、日本スポーツ出版社、1997年3月31日、81頁。
- ^ 『中日新聞』1996年11月27日朝刊第一運動スポーツ面29頁「ドラフトだより(金額は推定) 【横浜】川村、森中が契約」(中日新聞社)
- ^ 「'98プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第22巻第4号(通算:第236号 / 1998年3月号)、日本スポーツ出版社、1998年3月31日、38頁。
- ^ a b c 「'99プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第23巻第3号(通算:第246号 / 1999年3月号)、日本スポーツ出版社、1999年3月31日、25頁。
- ^ 「【DeNA】東克樹が11連勝で球団24年ぶりの15勝目「本当にうれしい。残り試合も勝てるように」」『スポーツ報知』報知新聞社、2023年9月20日。2023年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月20日閲覧。
- ^ a b ホームラン 2000, p. 224.
- ^ 『プロ野球選手名鑑2000 公式戦全日程 プロ野球記録集』(第1版第1刷版)、ベースボール・マガジン社(編集・発行)、2000年3月10日、71頁。ISBN 978-4583036304。
- ^ 『2000年 プロ野球選手写真名鑑』〈日刊スポーツグラフ〉、日刊スポーツ出版社、2000年4月17日、99頁。ISBN 978-4817250797。
- ^ 「完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2001」『ホームラン』第25巻第2号(通算:第258号 / 2001年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、2001年3月31日、61頁。
- ^ 横浜DeNAベイスターズベースボールスクール
- ^ 講師紹介 横浜DeNAベイスターズ
- ^ 「DeNAがジュニアチームのセレクションを7月下旬に開催!」『BASEBALL KING』2017年6月14日。2017年12月3日閲覧。
- ^ 「2018年度 コーチ契約について」『選手・チームのニュース』横浜DeNAベイスターズ、2017年10月2日。2017年12月3日閲覧。。
- ^ 「2018年シーズン 横浜DeNAベイスターズコーチングスタッフ・コーチ契約について」『選手・チームのニュース』横浜DeNAベイスターズ、2017年11月6日。2017年12月3日閲覧。
- ^ 「DeNA、川村コーチをBC神奈川の監督に派遣 地元出身「発展に貢献できれば」」『BASEBALL KING』2021年11月7日。2021年11月7日閲覧。
- ^ 川村丈夫氏 監督就任のお知らせ - 神奈川フューチャードリームス(2021年11月7日)2021年11月7日閲覧。
- ^ “川村丈夫監督退任のお知らせ”. 神奈川フューチャードリームス (2024年10月3日). 2024年10月3日閲覧。
- ^ a b 大矢明彦(横浜コメント担当解説者)、フジテレビ『プロ野球ニュース』『プロ野球ニュース イヤーブック 選手名鑑2000』(第1刷発行版)、ザ・マサダ、2000年4月1日、54頁。ISBN 978-4883970148。
- ^ 個人年度別成績 【川村丈夫 (横浜ベイスターズ)】 - 日本野球機構
- ^ 「大和市市民栄誉賞」『大和市』。2019年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月5日閲覧。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 川村丈夫 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
- 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE