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尾崎局

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尾崎局(おざきのつぼね、大永7年(1527年)または享禄元年(1529年[1] - 元亀3年9月30日1572年11月5日))は、戦国時代の女性。父は大内氏の重臣で長門国守護代である内藤興盛。母は備後国国人山内直通の娘[2]大内義隆の養女として安芸国戦国大名毛利隆元正室となり、毛利輝元毛利徳鶴丸津和野局吉見広頼室)を産む。

兄に内藤隆時内藤正朝内藤隆貞内藤弥二郎[2]。姉に問田殿(大内義隆側室)、宍戸元秀[3]。弟に内藤隆春山内元興内藤元種[2]。妹に和智元郷室、出羽元祐[2]

実名はあやや(あやゝ)[4][5]。別名は小侍従とも。法号は妙寿寺仁英妙寿[6]。「尾崎局」という名前は、夫・隆元と共に吉田郡山城の尾崎丸(尾崎郭)に住んでいたことに由来する[5][7]

生涯

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大永7年(1527年)または享禄元年(1529年[1]大内氏重臣で長門国守護代内藤氏の当主・内藤興盛の三女として生まれる。

天文18年(1549年)、当時は大内氏の有力被官で安芸国国人領主であった毛利元就周防国山口大内義隆を訪問した際に、かつて人質として山口に滞在していた元就の嫡男・毛利隆元との縁組が決まり、大内義隆の養女となる形で隆元の正室として嫁した[1][8][注釈 1]。この時期の元就の書状からは、尾崎局がただ隆元の正室というだけでなく、「御屋形様」(大内義隆)から賜ったものであるとの認識を元就が持っており、実質的に大内氏との意思疎通の架け橋となり得る立場であったことから丁重に扱われ、かつ信頼されていたことが窺える[11]

天文19年(1550年)7月、毛利家の重臣である井上一族を誅罰した際に、毛利元就は「井上衆罪状書」を尾崎局に出している。尾崎局の父である内藤興盛を通じて大内義隆の了承を求める必要があったためである[12]

天文22年(1553年1月22日、吉田郡山城内の尾崎丸において長男の幸鶴丸(後の毛利輝元)を出産する[13]。輝元以外にも年不詳ながら隆元との間に次男の徳鶴丸(早世)と吉見広頼の正室となる津和野局が生まれている[14][15]。なお、津和野局は永禄5年(1562年)以前に吉見広頼と婚姻したと考えられることや、津和野局の娘・矢野局河野通直室)の推測される生年から、輝元の姉と考えられている[16]

弘治元年(1555年)から弘治3年(1557年)にかけての防長経略の際に、尾崎局の甥で内藤氏当主である内藤隆世大内義長を奉じて毛利氏に敵対した上、大内氏の滅亡と共に自害したが、同年12月20日には毛利隆元によって尾崎局の弟である内藤隆春が長門国の守護役(守護代)に任じられている[5][17]。 このことに関して、内藤隆春が元亀3年(1572年10月12日に記した毛利氏への忠誠を誓う起請文の中で「大方様御厚恩」と述べており、また、大内氏滅亡以前に隆元が元就に対して内藤隆春の処遇について申し入れていることが窺える史料があることから、内藤隆春の起用には隆元・尾崎局夫妻の意向が強く影響していたと考えられている[17]

また、輝元誕生の翌年の防芸引分に始まり、厳島の戦い防長経略石見国への進出、尼子氏攻め等で断続的に出陣を繰り返したため吉田郡山城を留守にしがちの隆元に代わって、尾崎局が輝元へ異見する立場にあった。しかし、輝元は尾崎局の異見に従わないことが多かったためその養育に苦労しており、尾崎局が隆元に宛てた書状[注釈 2]では「輝元は隆元の言う事には恐れて従うが、私が意見しても一向に聞き入れようとはしない。輝元の守役を務める国司元武にも輝元の機嫌を損ねることでもよくよく異見するように言っているがそちらも同様である。そのため、輝元に私と国司元武の言う事をよく聞くように言って頂きたい」との旨を述べている[20]

永禄6年(1563年8月4日に隆元が急死すると、より一層輝元の養育に心血を注いでおり、輝元が元服した永禄8年(1565年)以降に毛利氏の五奉行の一人である桂就宣に宛てた書状によると、弟の内藤隆春を通じて元就から輝元の養育について何事か伝えられたことに対して尾崎局は表面的には従いつつも「輝元の養育については私が油断なく申し聞かせますのでご安心ください」と述べて元就からの口出しを遠回しに断っており、父の隆元がいなくとも母である自分が責任をもって輝元を養育するという強い決意が窺われる[21][22]

また、毛利元就は尾崎局を分国経営に参与させ、自身のことは「上様」「御隠居」といった通常の呼称ではなく、「ちいさま(じいさま)」と呼ばせていた[23]

元亀2年(1571年6月14日に元就が没した時に、輝元の叔父の吉川元春に輝元の後見を依頼した書状が現存しており、「頼れるのは叔父の元春・隆景だけ。親ともなり力になってほしい」と切々と訴える、母の真情が溢れる内容が綴られている[22]。また、義母の中の丸に家庭内の相談をする一方で、五龍局と元春・隆景ら姉弟の仲を心配し、これらの和に努めている[8]

元就の死の4ヶ月後の10月6日、吉見広頼に嫁いだ娘・津和野局が死去すると尾崎局は大いに傷心し、10月16日に吉川元春が吉見広頼の父・吉見正頼に宛てた書状において、尾崎局の茫然自失の嘆き様が記されている[24]

舅に続いて娘にも先立たれたことにより気力を失ったたためか体調を崩すようになり[25]、元亀3年(1572年9月30日に死去[8]。享年44または46。墓所は広島県安芸高田市洞春寺跡。当初は菩提寺である妙寿寺吉田郡山城内に建てられ、墓も寺内にあったが、後に毛利元就ら毛利一族と共に毛利氏一族墓所に移されている[8]

登場作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 毛利隆元と婚姻した際に尾崎局に付き従った人物として永富盛詮・あやという兄妹がおり、尾崎局が死去するまで付き従い、尾崎局の没後もその法事に永代詰めることを申し付けられている[9][10]
  2. ^ 年月日不詳だが、宛先を「ささめ御やど」と記しており、「ささめ」は隆元が急死した場所でもある安芸国佐々部(古くは「佐々目」とも書いた)と推測されるため、この書状が隆元急死の直前に書かれたものであった可能性が指摘されている[18]。ただし、同様のやり取りが尾崎局と隆元の間で頻繁にあったであろうことが容易に想像でき、宛所のみでこの書状が2人の最後の音信であったと即断することは難しいとする見解もある[19]

出典

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  1. ^ a b c 光成準治 2016, p. 8.
  2. ^ a b c d 近世防長諸家系図綜覧 1966, pp. 188–189.
  3. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 189.
  4. ^ 閥閲録』巻170「内藤小源太家来 勝間田八郎左衛門」第18号、年不詳8月16日付、勝間田二兵衛宛てあやゝ(尾崎局)書状。
  5. ^ a b c 下関市立歴史博物館 2018, p. 54.
  6. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 8.
  7. ^ 光成準治 2016, p. 3.
  8. ^ a b c d 河合正治 1986, 小都勇二「元就の家族」
  9. ^ 五條小枝子 2020, p. 117.
  10. ^ 『閥閲録』巻170「内藤小源太家来 永富彌三右衛門」家譜。
  11. ^ 五條小枝子 2020, p. 123.
  12. ^ 田端泰子 2005, pp. 216–217.
  13. ^ 光成準治 2016, pp. 1–2.
  14. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 9.
  15. ^ 光成準治 2016, p. 11.
  16. ^ 光成準治 2016, p. 12.
  17. ^ a b 下関市立歴史博物館 2018, p. 79.
  18. ^ 光成準治 2016, p. 7.
  19. ^ 五條小枝子 2020, pp. 133–136.
  20. ^ 光成準治 2016, pp. 5–8.
  21. ^ 光成準治 2016, pp. 9–10.
  22. ^ a b 笠原一男 1976, 藤木久志「戦国乱世の女たち」
  23. ^ 堺屋ほか 1997, 宮本義己「嫁に「じいさま」と呼ばせた男の合理性と現代性」.
  24. ^ 五條小枝子 2020, pp. 156–157.
  25. ^ 五條小枝子 2020, p. 157.

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 笠原一男 編『彼岸に生きる中世の女』評論社〈日本女性史3〉、1976年。 
  • 河合正治 編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年。 
  • 堺屋太一山本七平ほか『毛利元就―「はかりごと多きは勝つ」 秀吉が、そして家康が畏怖した男』プレジデント社、1997年。 
  • 田端泰子『山内一豊と千代―戦国武士の家族像―』岩波書店岩波新書〉、2005年。 
  • 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。ISBN 462307689X 
  • 下関市立歴史博物館『特別展 大内氏の滅亡と毛利氏の隆盛―海峡の戦国史 第1章―』下関市立歴史博物館、2018年10月。 
  • 五條小枝子『戦国大名毛利家の英才教育―元就・隆元・輝元と妻たち―』吉川弘文館歴史文化ライブラリー〉、2020年1月。 
  • 萩藩閥閲録』巻170「内藤小源太家来 勝間田八郎左衛門」「内藤小源太家来 永富彌三右衛門」

関連項目

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