コンテンツにスキップ

寒河江為広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
寒河江 為広
時代 室町時代戦国時代
生誕 不詳
死没 文明18年9月8日1486年10月5日
改名 法名:常泉院殿心識本公
別名 為慶[1]
官位 従五位下、右衛門佐
幕府 室町幕府
氏族 大江氏親広流寒河江氏
父母 父:寒河江元高、母:不詳
兄弟 高重、為広、孝満
不詳
知広、幸道
テンプレートを表示

寒河江 為広(さがえ ためひろ、旧字体:為廣)は室町時代から戦国時代武将寒河江氏12代。寒河江城主5代。

生涯

[編集]

寒河江元高の次男として生まれるが、長兄寒河江高重の死により寒河江氏を継いだ。高重の没年が不明の為相続時期は不明。応永20年(1413年)大沼大行院の本社を再建したという[2]

伊達氏応仁元年(1467年)から文明4年(1472年)までの間に国分氏を3度攻めて和睦するが[3]、この争いに際して寒河江氏庶流の白岩満教は国分氏を支援した[4]

文明11年(1479年伊達氏の侵攻を受ける。この時一族内で結束に乱れがあり、慈恩寺弥勒堂に誓書を納めている。この時は寒さにより干戈を交えず撤退した伊達氏だが、翌文明12年(1480年)春、再び攻め寄せる。庶流の左沢氏溝延氏と共に伊達軍を寒河江荘奥深くに引き込み、伊達側大将桑折播磨守宗義を打ち取って撃退した(菖蒲沼の戦い)。同年桑折播磨守の子息が最上満氏に仲介を依頼し、菩提を弔う時宗松蔵寺が慈恩寺近くに開かれた[5]

文明18年(1486年)9月8日に没し跡を寒河江知広が継いだ。

系譜

[編集]
  • 父: 寒河江元高 - 兵部少輔。長禄元年(1457年)12月没。千手院殿大舟江公。
  • 母: 不詳
  • 妻: 不詳
    • 知広 - 長男。出羽守。寒河江城主6代。娘は中野氏に嫁いだとされる。長門大寧寺末として澄江寺建立。法名澄江寺殿高嶽棟公。
    • 幸道[6] - 2男。慈恩寺別当坊35代。

脚注

[編集]
  1. ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.102「安中坊系譜」
  2. ^ 大沼大行院系図『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.196。父および祖父の生前(元時:1366年~1448年、元高:?~1457年)なので疑問も残る。
  3. ^ 『宮城県史』復刻版第1巻389頁
  4. ^ 応仁2年(1468年)熱塩郷にある年貢5貫文の滝之在家および2貫500文の在家1宇を与えた。(国分文書)『角川日本地名大辞典(旧地名編)』
  5. ^ 松蔵寺『幹縁疏』
  6. ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.40「最上院本大江系図」

関連資料

[編集]
  • 寒河江市史編纂委員長 阿部酉喜夫『寒河江大江氏』、1988
  • 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994
  • 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001

関連項目

[編集]