国民革命忠烈祠
国民革命忠烈祠(こくみんかくめいちゅうれつし)とは、台湾台北市に位置する英霊殿のことを指す。
1969年に現在の姿で完成し、現代の台湾全土における殉難者を崇敬する建築の中では、最も高い地位を持つとされている。中華民国政府が直接管理する数少ない建築の1つであり[1]、国防部が施設としての運営を担当しており[2]、台北市の公式英霊殿も兼ね備えている[3]。その建築様式は、中国北京の紫禁城を模倣しつつ、台湾特有の美学を取り入れた装飾が多く施されている[4][5]。
儀仗隊と呼ばれる衛兵の交代式は非常に有名であり、基本的には、毎日「午前9時」から「午後5時」までの毎正時に実施されている。外国の観光客が台湾を訪れる際、この儀仗隊交代式を見るために此処を訪れることも少なくない[6][7]。また、国民革命忠烈祠の儀仗隊は、「中正紀念堂」の儀仗隊とは全く異なる訓練システムで育成されており、両者を比較することも1つの楽しみとなっている。
中華民国総統府の公式サイトによると、総統および政府は、毎年3月29日と9月3日の午前に、中国大陸で民主主義の推進に犠牲となった中国人や、台湾民主化の成功に尽力した台湾人への追悼祭を行っている[8]。それぞれ台湾の春分と秋分の日に行われるため、「春秋祭典」と呼ばれ、一般市民や外国人観客も見学することができる。
呼称と定義
[編集]- 台湾の読み方は「グオミンゲアミンジョンレーツー」である。
- 台湾の漢字表記は「國民革命忠烈祠」であり、「国」は繁体字の「國」と書くべきである。
当時の中華民国総統、蔣介石によって「国民革命忠烈祠」と命名されたが、この正式名称があまりにも長いため、台湾人は一般に「忠烈祠」、または「台北忠烈祠[9]」「円山忠烈祠[10]」「大直忠烈祠」などと簡略化して呼ばれることが多い。
台湾の中華民国教育部の公式サイトに拠ると:
- 「祠」とは、日本語では非常に小さい神社や仏壇を指しているが、台湾国語では中規模で豪華な建築を指し、英霊のみを祀る場所を意味している[11][12]。
- 「忠烈」とは、「中華民国に対して強烈な忠誠心を持ち、そして壮烈に命を落とした者」を指している[13][14]。
特徴
[編集]外観
[編集]山門をくぐると、中等規模な広場が広がり、その奥に紫禁城の外観を模した大殿があり、左右には「文烈士祠」と「武烈士祠」が配置されている:
- 文烈士祠には、主に革命家、民主運動家、愛国文人などが祀られている。
- 武烈士祠には、革命や建国のために命を捧げた兵士約33万人[15]が祀られており、全ての戦没兵士を対象とするわけではなく、中華民国国防部が作成した名簿に正式登録された者のみが祀られている。
また、名簿に登録されていない兵士や、中華民国の建国、討袁、護法運動、北伐、剿匪(中国共産党を消滅)、日中戦争、国共内戦、タイ・ビルマ方面孤軍で犠牲となった民間人なども、それぞれの「祠の間」に順次祀られており、合計で40万人[16]以上の名も無き者たちが共に祀られている。
所在地
[編集]台北市中山区の剣潭山に位置し、円山大飯店の近くにあり、台湾の公式住所は「台北市中山区北安路139号」である。交通アクセスとしては:
- 台北市聯営公車208、213、247、267、287、21、42 - 忠烈祠バス停
- 台北市聯営公車21、47、40、42、203、208、240、260、291、301、304、308、310 - 圓山バス停
儀仗隊交代
[編集]忠烈祠内では、中華民国の陸軍、海軍、空軍がそれぞれ異なる儀仗隊を務めており、1時間ごとに交代で大門と大殿を各2人ずつ守っている[17]。守門中は、1時間微動だにせず、瞬きさえも控えています。側には世話係がつき、衛兵の汗をハンカチで拭うなどの手助けをしています。
儀仗隊の交代は1時間ごとに行われている[18]。毎時ちょうどになると引率の兵士1人を含む5人(任務に就いていた兵士とこれから就く兵士)で隊列を組んだ儀杖兵が、大門から大殿に向かって銃を背中に背負ってゆっくりと行進を開始する。大殿に到着すると、儀杖兵は任務に就いていた衛兵2名と合流して、殿内の位牌に向かい敬礼をする。その後、銃を交換、またそれを振り回す儀式(衛兵が持っている銃の状態を確認する動作が半ば形式化したもの)を行い、次に任務に就く2名を残して、3名で大門に戻って行く。そして、大門に行くと大門守護の任務に就く2人が門の前に行き台の上で任務に就く。
交代の所要時間は約20分間です。「午後5時の儀式」は特別で、午後4時40分から早めに開始され、約20分間にわたって銃を用いた動作が披露されている。 この儀仗隊の交代式が大きな魅力となり、忠烈祠の本体を超えて、台北市において外国人観光客に人気のある観光地の1つとなっている。現在では、中華民国への忠誠心を高めることや、豪華絢爛な建築装飾の鑑賞することよりも、カッコイイ儀仗隊の姿を見るために訪れる人々のほうが圧倒的に多いのは現状である[19]。
歴史
[編集]この敷地にはもともと日本統治時代に開発され、台湾護国神社や台湾神宮が建立されていた。日本の敗戦後、中華民国政府は台湾島を接収し、かつての神道の神社は撤去され、一部の施設は「円山大飯店」に改修されていた。日本の国家神道や皇民化運動に関連するものは、反民主主義の象徴として全て廃止されたが、神社にあった宝物は一切破壊されること無く[20]、円山大飯店に移入され、現在もそのままの状態で保管されている[21][22]。
その跡地を活用する形で、1969年には当時の中華民国総統・蒋介石の指導の下[23]、現在の「国民革命忠烈祠」が建設されていた。忠烈祠は「中華民国への愛国心」を高める象徴的な場所として整備され、その主旨は辛亥革命をはじめ、中華民国建国や革命、さらに日中戦争など中国大陸での戦争において犠牲となった兵士や革命家、民間人の魂を祀ることにある。
ギャラリー
[編集]脚注
[編集]- ^ “國民革命忠烈祠入祀辦法:第二條”. 法務部全國法規資料庫工作小組. 2020年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月29日閲覧。
- ^ “國民革命忠烈祠”. 中華民国国防部(後備指揮部). 2024年12月12日閲覧。
- ^ 蔡錦堂 (2001-06). 忠烈祠研究--「國殤聖域」建立的歷史沿革. "圓山忠烈祠為國民革命專祠,暫替代首都忠烈祠"
- ^ “雙重重構:回望台灣建築的1950到1979年代 | 各期學報” (中国語). 現代美術 PLUS. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “國家神域的轉換與重製:曹良賓的「想像之所」” (中国語). 典藏ARTouch.com (2018年3月15日). 2024年12月12日閲覧。
- ^ “忠烈祠”. taipei. 2024年12月12日閲覧。
- ^ Travel|海外現地オプショナルツアー予約, Buyma (2024年8月30日). “台北で大人気の忠烈祠の衛兵交代式!感動の見どころをご紹介”. BUYMA TRAVEL|海外現地オプショナルツアー予約. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “春秋祭典” (中国語). www.president.gov.tw. 2024年12月12日閲覧。
- ^ 交通部觀光署 (2008年4月19日). “交通部觀光署-台北市”. 交通部觀光署. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “中樞圓山忠烈祠秋祭國觴 蔡總統主祭副總統與五院院長陪祭” (中国語). Yahoo News (2023年9月3日). 2024年12月12日閲覧。
- ^ “祠 示部-5畫-共10畫”. 中華民国教育部. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “祠 [示部-5畫-共10畫]”. 中華民国教育部. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “辭典檢視 「忠烈 : ㄓㄨㄥ ㄌㄧㄝˋ」”. 中華民国教育部. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “忠烈”. 中華民国教育部. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “國防部政治作戰局-首頁-國軍文藝金像獎-文字類-報導文學”. gpwd.mnd.gov.tw. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “祠祀葬厝 - 國民革命忠烈祠介紹”. 2011年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月24日閲覧。
- ^ 青の制服が空軍、白の制服が海軍、緑の制服が陸軍。
- ^ 毎年3月29日の青年節、9月3日の軍人節、悪天候の日を除いて、毎日行われる。雨降りの場合は簡略的なものが行われる。
- ^ 饒賀凱、楊明原、宋欽益、林勇年、謝瑋鎧 (2003). “國家神域的建構:以高雄的神社與忠烈祠為對象” (中国語). 國家文化資料館: 1.
- ^ “臺灣記憶 Taiwan Memory”. tm.ncl.edu.tw. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “忠城烈事--國民革命忠烈祠”. 2013年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月24日閲覧。
- ^ 三立新聞網 (2016年3月24日). “六樓夾層藏黃金?一窺神秘通道 「龍宮」圓山飯店揭秘 | 生活 | 三立新聞網 SETN.COM” (中国語). www.setn.com. 2024年12月12日閲覧。
- ^ “組圖:中華民國國民革命忠烈祠見證歷史 | 國父 | 孫中山 | 慎終追遠 | 大紀元” (中国語). 大紀元 www.epochtimes.com (2022年4月17日). 2024年12月12日閲覧。
外部リンク
[編集]座標: 北緯25度4分49.65秒 東経121度31分57.91秒 / 北緯25.0804583度 東経121.5327528度