古荘幹郎
生誕 |
1882年9月14日 日本・熊本県 |
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死没 | 1940年7月21日(57歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1903年 - 1940年 |
最終階級 | 陸軍大将 |
墓所 | 多磨霊園 |
古荘 幹郎(ふるしょう もとお、1882年(明治15年)9月14日 - 1940年(昭和15年)7月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。正三位勲一等功五級。
生涯
[編集]熊本県出身。古荘幹之陸軍大尉の長男として生まれる。陸軍幼年学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を次席で卒業。翌年6月、歩兵少尉任官。日露戦争では、近衛歩兵第4連隊付として出征し、戦傷を受けた。
1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を首席で卒業。ドイツ大使館付武官補佐官、参謀本部員(編制班長)兼山縣有朋元帥副官を経て参謀本部編制動員課長、陸軍省軍務局軍事課長など省部の中枢を歩む。
1928年(昭和3年)8月には陸軍少将に進級し、歩兵第2旅団長、陸軍省人事局長を歴任。
1930年(昭和5年)には参謀本部総務部長、次いで同第一部長に就く。しかし作戦担当にもかかわらず、重要事項は次長の真崎甚三郎、第三部長の小畑敏四郎、作戦課長の鈴木率道ら皇道派ラインが仕切り、彼らと永田鉄山第二部長ら他の幹部との対ソ・支那戦略を巡る内紛も激化。また参謀本部在任時には脳溢血の発作を起こし、その後は体調不十分のまま勤務を続けざるを得なかった。
1933年(昭和8年)3月、陸軍中将に昇進。第11師団長を経て、1935年(昭和10年)9月、陸軍次官となる。翌1936年2月に二・二六事件が発生、杉山元参謀次長とともに戒厳令施行を強く進言し、事態の収拾に当たる。首謀者厳罰の方針を決定した後、同年3月には自らも事件の責任を負って次官を梅津美治郎に譲り、航空本部付となる。
その後は航空本部長、台湾軍司令官、第5軍司令官、第21軍司令官を歴任。1938年(昭和13年)9月、広東攻略戦に出動、海軍の第五艦隊と共同して、10月12日、バイアス湾に上陸し、10月21日、広州に入城した。病の再発もあって日本に帰還、1939年(昭和14年)5月には陸軍大将に進級し軍事参議官となるが師団視察後に倒れ、現職のまま1940年(昭和15年)7月21日死去。
年譜
[編集]- 1901年(明治34年)5月 - 陸軍中央幼年学校卒業
- 1902年(明治35年)11月 - 陸軍士官学校卒業(第14期次席)
- 1903年(明治36年)6月 - 少尉任官、近衛歩兵第4連隊付
- 1905年(明治38年)2月 - 中尉に進級
- 1908年(明治41年)12月 - 大尉に進級
- 1909年(明治42年)12月 - 陸軍大学校卒業(第21期首席)、参謀本部員
- 1914年(大正3年)3月31日 - 駐独国大使館附武官補佐官
- 1916年(大正5年)5月2日 - 少佐に進級
- 1918年(大正7年)4月1日 - 参謀本部編制班長兼元帥副官(山縣有朋元帥附)
- 1920年(大正9年)8月10日 - 中佐に進級
- 1923年(大正12年)
- 3月17日 - 参謀本部編制動員課長兼陸軍大学校兵学教官
- 8月6日 - 大佐に進級
- 1925年(大正14年)5月1日 - 近衛歩兵第2連隊長
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)8月10日 - 少将に進級、歩兵第2旅団長
- 1929年(昭和4年)8月1日 - 陸軍省人事局長
- 1930年(昭和5年)12月22日 - 参謀本部総務部長
- 1932年(昭和7年)2月5日 - 参謀本部第一部長
- 1933年(昭和8年)3月18日 - 中将に進級
- 1934年(昭和9年)8月1日 - 第11師団長
- 1935年(昭和10年)9月21日 - 陸軍次官
- 1936年(昭和11年)
- 3月23日 - 陸軍航空本部附
- 8月1日 - 陸軍航空本部長
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)9月8日 - 第21軍司令官
- 1939年(昭和14年)5月19日 - 大将に進級、軍事参議官
- 1940年(昭和15年)7月21日 - 死去
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
親族
[編集]- 父・古荘幹之(陸軍大尉)[5]
- 母・富子(京都鴨川の芸妓)[6]
- 弟:古荘陸生(陸軍大尉、岳父に白川義則)[6]
- 父方いとこ:古荘四郎彦(千葉銀行頭取)[7]
- 妻:古荘嘉子(建築家伊藤為吉の娘)
- 娘婿:尾形康二(陸軍中佐)