佐久間信辰
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文7年(1538年) |
死没 | 慶長4年11月23日(1600年1月9日) |
改名 | 信辰→休斎(法名) |
別名 | 通称:七郎左衛門、左京亮、左京助 |
墓所 | 群馬県館林市の茂林寺 |
主君 | 織田信長→信雄→徳川家康 |
氏族 | 佐久間氏 |
父母 | 父:佐久間信晴 |
兄弟 | 信盛、信辰、明嶽 |
子 | 信好、信重 |
佐久間 信辰[1](さくま のぶとき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏、徳川氏の家臣。佐久間信盛の弟。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにおいて善照寺砦で軍功を挙げた。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉が織田信雄を伊勢国に攻めたとき、信雄方に付き、前田与十郎と共に居城の蟹江城を守った。しかしこの与十郎が裏切って滝川一益と九鬼嘉隆を城に入れた。信辰は城を焼き払って甥・信栄(正勝)の妻子を殺して自害しようとした。しかし一益は城を焼かれてしまっては意味がないと判断し、与十郎の子を人質に差し出して、安全に退去させた。その後、徳川家康が信雄と共にこの城を攻め、一益は支えきれずに与十郎を斬って降伏した。
この縁もあって後に家康に召し出され、榊原康政の居城館林城の留守居役となった。最期は館林にて62歳で没した。