二階堂行義
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時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 建仁3年(1203年) |
死没 | 文永5年閏1月25日(1268年3月10日) |
改名 | 行義→道空(法名) |
別名 | 通称:隠岐三郎左衛門尉、隠岐左衛門尉、出羽前司[1]、隠岐出羽前司 |
官位 | 左衛門尉、出羽守、 正五位下 |
幕府 | 鎌倉幕府 評定衆 |
氏族 | 藤原南家乙麻呂流 二階堂氏 |
父母 | 父:二階堂行村 |
兄弟 | 基行、行義、行久、行方、惟行 |
子 | 行有(次男)、女(佐竹義胤の正室) |
二階堂 行義(にかいどう ゆきよし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武士。鎌倉幕府評定衆。
略歴
[編集]『吾妻鏡』には嘉禄元年(1225年)12月20日から文永3年(1266年)3月6日まで記載がある。 嘉禎4年/暦仁元年(1238年)、評定衆となる[3]。建長4年(1252年)、新たに将軍に就いた宗尊親王の御所改築にあたり、将軍の方違いに関する奉行となった[4]。 文永5年(1268年)、死去。享年66[5]と言われている。
官歴
[編集]- 嘉禎2年(1236年)2月30日 - 使宣旨[6]、左衛門尉[5]。
- 嘉禎3年(1237年)2月28日 - 叙爵[5]。
- 嘉禎3年(1237年)10月27日 - 出羽守[5]。
- 暦仁元年(1238年)4月2日 - 鎌倉幕府評定衆
- 延応元年(1239年)9月9日 - 従五位上[5]。
- 仁治元年(1240年) - 前出羽守。
- 寛元3年(1245年)12月2日 - 正五位下[5]。
- 文応元年(1260年)7月20日 - 出家、法名は「道空」[5]。
- 文永5年(1268年)閏正月25日 - 卒[5]。
脚注
[編集]- ^ 『吾妻鏡』。
- ^ 「尊卑文脈」「関東評定伝」
- ^ 「吾妻鏡」暦仁1年4月2日条、『大日本史料』5編11冊806頁
- ^ 「吾妻鏡」建長4年5月5日条、『史料総覧』5編904冊783頁
- ^ a b c d e f g h 「関東評定伝」『史料総覧』5編905冊145頁
- ^ 使宣旨を蒙る。検非違使あるいは奉幣使の任にあった。
関係資料
[編集]- 「Kokushikan nichiroku」 - 著者:Gahō Hayashi、Shunsai Hayashi、山本武夫、Takeo Yamamoto 出版社:八木書店、2005年、ISBN- 4797112948、ISBN-9784797112948
- 東京大学史料編纂所『大日本史料』『史料総覧』