コンテンツにスキップ

下館城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
下館城
茨城県
本丸跡
本丸跡
別名 螺城
法螺貝城
築城主 水谷勝氏
築城年 文明10年(1478年)
主な城主 水谷氏松平頼重増山氏、黒田氏、石川氏
廃城年 明治2年(1869年)か?
遺構 本丸跡、堀跡
指定文化財 市指定史跡
位置 北緯36度18分56.8秒 東経139度58分38.8秒 / 北緯36.315778度 東経139.977444度 / 36.315778; 139.977444 (下館城)座標: 北緯36度18分56.8秒 東経139度58分38.8秒 / 北緯36.315778度 東経139.977444度 / 36.315778; 139.977444 (下館城)
地図
下館城の位置(茨城県内)
下館城
下館城
テンプレートを表示

下館城(しもだてじょう)は、茨城県筑西市甲(本城町)にあった日本の城。筑西市指定文化財史跡)。

概要

[編集]

天慶年間(938年 - 948年)、藤原秀郷平将門追討のために築いた三館(上館・中館・下館)[1]のうち下館にあたるという伝承がある。

文明10年(1478年)、水谷伊勢守勝氏結城氏広から下館領を与えられ築城したのが、明治維新まで残った城郭の始まりである。以後、水谷氏の居城として戦国時代を経て、江戸時代初期の寛永16年に水谷勝隆備中国成羽藩へ転封[2]松平頼重が入封する。寛永19年(1642年)の松平頼重転封後は一時天領となるが、井上正岑黒田直邦などの支配を経て、石川総茂が2万石で入封。石川氏9代の治世が続き明治維新を迎えて、明治2年(1869年)ごろ廃城となった。

歴史・沿革

[編集]

構造

[編集]

東に勤行川が流れる台地上に建つ。濠を三重にめぐらし、別名として螺城または法螺貝城と称する。

周辺

[編集]

支城

[編集]

考古資料

[編集]

遺構

[編集]

現在、城域は筑西市立下館小学校および宅地などとして開発されており、はっきりとした遺構を確認するのは難しい。本丸跡に八幡神社が残る。現在、下館小学校と八幡神社境内の間に、堀の一部が道路となり残っている。

脚注

[編集]

注釈・出典

[編集]
  1. ^ 三館のうち、中館は後に伊佐氏により改修され伊佐城に、上館は水谷正村(蟠龍斎)により改修され久下田城になったとされる。
  2. ^ 水谷勝隆はその後備中国松山藩に転封となり、次代の水谷勝宗備中松山城(国の重要文化財)を改修。今も残る松山城天守は、この時の改修により現在の形となった。

関連項目

[編集]