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一色教親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一色教親
時代 室町時代中期
生誕 応永26年(1419年
死没 宝徳3年11月28日1451年12月21日
別名 範親、政氏、通称:五郎
戒名 成就院
官位 左京大夫
幕府 室町幕府四職丹後伊勢北半国・山城守護
主君 足利義教義勝義政
氏族 一色氏兵部一色家丹後一色家
父母 父:一色持信一色義範[1]
養子:五郎(一色義清の父[2]
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一色 教親(いっしき のりちか)は、室町時代中期の武将守護大名

生涯

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将軍足利義教の側近として重用され、その偏諱を受けて教親を名乗る。そのため、一色氏惣領の父義範との対立は続いた。

永享12年(1440年)5月15日に義範が、将軍足利義教の命を受けた武田信栄に追討され大和国で自害に追い込まれると、翌日早朝、手勢を引き連れて京の義貫邸を襲撃、放火した。この騒動で義貫の家臣数十人が討死、自害している。

この功績により一色氏の家督を継ぎ、丹後国伊勢国北半国の守護となる(尾張国海東郡知多郡の分郡守護でもあった)。翌年6月24日の嘉吉の乱の際は義教に供奉していたが、いち早く逃げ出し難を逃れることができた。

文安4年(1447年)から宝徳元年(1449年)の間、山城国守護及び四職を務めた。宝徳3年(1451年)11月28日急死、享年33。嫡男がいたが、幼少であるため一色氏の家督は義貫の実子である義直が継いだ。

嗣子が無いまま没したという説もあるが、戦国期に丹後を支配した一色義幸は教親の後裔(『大日本辞書』では息子)とされる。

脚注

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  1. ^ 清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」戦国史研究会 編『戦国史研究』(82)p1-16(戦国史研究会、2021年)
  2. ^ 清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」戦国史研究会 編『戦国史研究』(82)p1-16(戦国史研究会、2021年)

参考文献

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