ラフィング・スターズ
ラフィング・スターズ | |
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別名 |
ラフィングスターズ・ジャズ・バンド 井田一郎とラフィング・スターズ |
出身地 | 日本 兵庫県神戸市 |
ジャンル | ジャズ |
共同作業者 | 北尾楽器店 |
メンバー | 井田一郎、高見政照、岩波桃太郎、山田敬一 |
ラフィング・スターズとは、1923年に神戸で結成された日本初のプロのジャズバンドである[1][2]。「ラフィングスターズ・ジャズ・バンド」「井田一郎とラフィング・スターズ」とも記される[3][4]。
沿革
[編集]前史
[編集]1922年ごろ、宝塚歌劇団の花組管弦楽部に所属していた団員たちが、ヴァイオリン奏者の井田一郎を中心にジャズ研究会を立ち上げ、11月の花組本公演の幕間にジャズを演奏した[5]。観客からは喝采を浴びたというが、宝塚のイメージにそぐわないという理由で、その後の演奏は取りやめとなったという[5][4][6]。なお、同団団員で、のちにラフィング・スターズのメンバーにもなった高見政照は、この時の経緯について以下のように回想している[4]。
私が入ってまもなく、井田さんがジャズ・バンドをやろうと言い出して、20人ほど終演後講堂に集まって練習を始めたんです。ある程度まとまったところで、お客の前でやったところ大変にウケましてね。そのうち古くからいるクラシック系の団員が「ジャズなんか、まともな音楽じゃないーー」というようなことを言いだして、ことごとに邪魔をするようになったので、1人抜け、2人抜けして最後には7人くらいに減ったんですね。そんなことをしているうちに宝塚と井田さんの間で、何か面白くない事件があったんです。そこで井田さんは私とピアノの岩波桃太郎、サックスの山田敬一の3人を引っぱって宝塚をやめてしまったわけです[4]。
活動
[編集]1923年5月、宝塚を退社した井田一郎、高見政照[注釈 1]、岩波桃太郎、山田敬一は、ラフィング・スターズを結成した[4][7][8]。ラフィング・スターズは、神戸市元町で楽器の輸入を行う北尾楽器店の専属となる[4]。井田が頼み込んだ結果、北尾楽器店は楽器の提供、月給の支払いを請け負ったのである[4]。北尾楽器店の北尾は貿易商北尾商会社長でもあり、米国からサクソフォーン、バンジョー、ドラムセットを取り寄せて提供した[6]。ラフィング・スターズは神戸・山手ホテルや大阪の『踏華クラブ』、奈良ホテルなどのパーティにて、週に何度か演奏した[4]。ちなみに、当時「ジャズ」という言葉は浸透しておらず、踊るための曲といった印象が強かったことから、ラフィング・スターズは「ダンスバンド」や「ダンスミュージック楽団」などと呼ばれた[9]。
なお、メンバーは六甲の御影に一軒家を借り、4人で暮らしていた[4]。仕事がない日は、近所迷惑にならないよう山に登って練習をしていたという[4]。
解散
[編集]ある日、山田がバンドに参加する以前に勤めていた化粧問屋の女性が、4人の住む家を訪問してきた[4]。その女性と店の番頭との結婚話が持ち上がり、山田を頼って逃げてきたとのことであった[4]。山田はその女性に好意があったようで、女性は4人の家に住み始めたが、山田は不安が募り、結局バンドの解散に至ったという[4]。本件からバンドの解散までの経緯について、メンバーの高見政照は以下のように回想している[4]。
山田君はしょげちゃって、仕事も練習も手につかないんですよ。僕ら3人で山へ練習に行っている留守にいつも2人っきりで残っているうちに意気投合したのか、結婚をすると言い出したんですよ。そんないきさつで、やっていても面白くないんで、私がトップを切って「井田さん、こんなんじゃあ、僕らはやる気がしないから、申訳ないけど別れましょう」ともち出して、結局解散してみんなチリヂリバラバラになったんです[4]。
解散後
[編集]2023年4月2日には、神戸でのジャズ発祥100周年を記念して、ラフィング・スターズを再現した4人編成のバンドが神戸市内のホテルで往年の名曲を披露した[10]。
評価
[編集]ラフィング・スターズは日本で最初のジャズバンドと言われている[11]。音楽学者の輪島裕介はラフィング・スターズの結成について「欧州のクラシックのような芸術的音楽と異なり、米国の大衆的な娯楽音楽『ジャズ』を日本で本格的に始めたという、音楽史的に重要な出来事」と評している[1]。また、日本学校ジャズ教育協会関西本部の理事長を務める日下雄介も「井田さんたちがジャズを独自にアレンジし、日本人にも親しまれる形にしていった」と指摘している[9]。
なお、服部良一も「灘万ジャズの少し前に井田一郎氏が宝塚オーケストラの中でジャズ・バンドを作って演奏した話」は「当時、ぼくも耳に入れている」と回想しているが、一方で「いずれにせよ、大衆の前でジャズを広く宣布した最初のプロは、灘万ジャズの前野港造といえるのではあるまいか」と述べている[12]。
ともあれ、ラフィング・スターズの登場により、神戸は日本のジャズの発祥の地と言われるようになった[1][9][13]。鈴木源也は「1923 (大正12) 年に国内初の日本人プロジャズバンドが結成されたことから、神戸は『国内のジャズ発祥の地』とされる」と述べているほか[9]、金井恒幸はラフィング・スターズについて「1923 (大正12) 年4月、バイオリン奏者で『日本のジャズの父』といわれる井田一郎が、神戸で結成し、市内のホテルなどで演奏を披露した。ここから神戸が日本のジャズ発祥の地とされる。江戸末期に開港し、外国文化がいち早く流入した街では、19年に旧神戸オリエンタルホテルでフィリピン人楽団がジャズを奏でるなど、土壌があった」と指摘している[1]。
また、「関西の<遊び>づくりの特色と市民余暇活用社会への戦略課題 : 関西シンクタンクネットワーク研究 」というレポートは、神戸でジャズが根付いた経緯について以下のように記している[3]。
日本にジャズが最初に根をおろしたのは、港町神戸である。その時期は定かではないが、明治40年には、聴くだけではなく、演奏活動へと歩み始めた。それは、ダンス音楽としてのジャズを、井田一郎が大阪三越百貨店音楽団の中で演奏グループを結成し、後、宝塚歌劇団を経て大正12年に日本初のプロ・ジャズ・バンド「ラフィングスターズ・ジャズ・バンド」を神戸三宮の北尾楽器店のマネージメントによって結成した時にはじまるといわれる[3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 大森盛太郎『日本の洋楽1』では高見友祥となっている (p148)。
出典
[編集]- ^ a b c d “<神戸ジャズの魂 響いて100年>歴史編(1)「産声」 初のバンド、外国航路にルーツ” (Japanese). 神戸新聞NEXT (2022年11月3日). 2024年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月2日閲覧。
- ^ 菊池清麿『評伝古関裕而 : 国民音楽樹立への途』彩流社、2012年、354頁。ISBN 978-4-7791-1785-5 。
- ^ a b c 『関西の<遊び>づくりの特色と市民余暇活用社会への戦略課題 : 関西シンクタンクネットワーク研究 (NRC-79-15)』総合研究開発機構、1981年、117頁 。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「座談会 日本のジャズ史の裏側」『スイングジャーナル』第30巻第14号、1976年11月、264-265頁。
- ^ a b 江藤茂博 編『宝塚歌劇団スタディーズ : 舞台を100倍楽しむ知的な15講座』戎光祥出版、2007年、183頁。ISBN 978-4-900901-71-1 。
- ^ a b 大森盛太郎『日本の洋楽 : ペリー来航から130年の歴史ドキュメント. 1』新門出版社、1986年12月、148頁 。
- ^ 堀和久『浅草人名録 2 (芸能人) (浅草文庫 ; 5)』ぱる出版、1985年、20頁 。
- ^ 武石みどり「1910-20年代の船の楽士 : 国内の洋楽受容・分化との関連」『研究紀要』第42巻、2019年、9頁。
- ^ a b c d 鈴木源也 (2022年11月18日). “【関西の初】日本ジャズ発祥の地・神戸 84歳女性シンガーが「テネシーワルツ」に込める夢と希望”. 産経新聞:産経ニュース. 2022年11月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月2日閲覧。
- ^ “サンテレビニュース”. サンテレビニュース (2023年4月2日). 2023年4月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月2日閲覧。
- ^ 「ベテラン・トランペッター関沢幸吉さんが制作した8mm記録映画」『スイングジャーナル』第38巻第11号、スイングジャーナル、1984年9月、240頁。
- ^ 服部良一『ぼくの音楽人生 : エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史』日本文芸社、2023年、55頁。ISBN 978-4-537-22164-0 。
- ^ 「そして神戸.........大正十二年、六甲山麓にジャズが響き渡った。」『Swing journal』第50巻第11号、スイングジャーナル、1996年10月。
外部リンク
[編集]- 100年前のジャズバンドを再現 神戸ジャズ発祥100周年 - サンテレビニュース。YouTube。