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フレイミング・ダート作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フレイミング・ダート作戦
戦争ベトナム戦争
年月日1965年2月7日 - 1965年2月24日
場所北ベトナム
結果:アメリカ空軍と南ベトナム空軍の戦略的敗北。戦争の激化を招いた。
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ベトナム共和国の旗 ベトナム共和国
ベトナム民主共和国の旗 ベトナム民主共和国
南ベトナムの旗 南ベトナム解放民族戦線
指導者・指揮官
アメリカ合衆国の旗 リンドン・ジョンソン ベトナムの旗 ホー・チ・ミン
ベトナム戦争

フレイミング・ダート作戦(フレイミング・ダートさくせん、英語: Operation Flaming Dart)は、アメリカ軍ベトナム共和国空軍ベトナム戦争中実施した軍事作戦。二回に分けて行われた。

概要

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アメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソン1965年2月、米軍への数度の攻撃に対し一連の報復爆撃を命じた。特にベトコンによって行われた、プレイクでの迫撃砲攻撃(プレイク飛行場の戦い英語版)に対する報復である。これらの攻撃で、ベトコンの工兵は爆薬でキャンプ・ハロウェイにあった、4機のC-7 カリブー、4機の軽飛行機、5機のヘリを破壊した。この襲撃で11機のヘリも被害を受けた[1]

1965年2月7日、49ソーティーがフレイミング・ダート一号作戦での報復のため出撃した。フレイミング・ダート一号作戦はドンホイ近郊に存在する北ベトナム陸軍の拠点を、第二波は軍事境界線近郊で、ベトコンの物流網と通信を標的としていた。パイロットの中には、後に軍事政権(グエン・バン・チュー政権)のメンバーとなるグエン・カオ・キがいた[1]

ベトコンはフレイミング・ダート一号作戦に反発してアメリカ人が宿泊しているホテルを攻撃し、この攻撃がフレイミング・ダート二号作戦による空爆のきっかけとなった。アメリカ海軍は空母「ハンコック」、「コーラル・シー」、「レンジャー」から、99機の戦闘爆撃機を発進させた。海軍機がチャンホアを爆撃している間、南ベトナム空軍アメリカ空軍はチャプレを攻撃した。南ベトナム空軍は28機のプロペラ攻撃機A-1 スカイレイダーを、アメリカ空軍は同数のジェット戦闘機F-100 スーパーセイバーを使用し目標にあたった。 アメリカ軍が南ベトナム軍とともに、ファームゲート戦術英語版で航空戦を行っていたが、アメリカ空軍の南ベトナムでの空爆は、ジェット機の使用により戦争を激化させてしまった[2]

アメリカの共産主義者への反発は激化し、北ベトナムへの空爆にとどまらなくなった。ワシントンも航空戦力の使用を激化させ、南にてジェット攻撃機で敵と交戦する事が許可された。2月19日、アメリカ空軍のB-57キャンベラは南ベトナム軍の地上部隊を支援するため、最初のジェット機による空爆を実施した。2月24日、空軍機は中部高原で待ち伏せする北ベトナム軍を分断するため、大規模な出撃を行って再度の空爆を実施した。繰り返しになるが、これは米軍による航空戦力の使用が激化した結果であった[3]

フレイミング・ダート作戦による侵攻作戦は、1965年3月2日に始まった44ヶ月におよぶ、ローリング・サンダー作戦へと続いた[3]。それ以外の航空作戦も、戦争中にわたって繰り広げられた。終戦までにアメリカが行った空爆は合計766万2000トンの兵器が使用され、歴史的にも非常に大規模なものとなった[4]

関連項目

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  • バトルフィールド ベトナム - ベトナム戦争を題材としたシューティングゲーム。マップの一つとして、「フレーミング・ダーツ作戦[5]」が選択可能。

脚注

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出典

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  1. ^ a b Clodfelter, p. 58.
  2. ^ Clodfelter, pp. 58-59.
  3. ^ a b Clodfelter, p. 59.
  4. ^ Clodfelter, p. 225.
  5. ^ 原文ママ

参考文献

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  • Clodfelter, Micheal. Vietnam in Military Statistics: A History of the Indochina Wars, 1772-1991. McFarland & Company, 1995. ISBN 0786400277, 9780786400270.
  • Frankum, Ronald Bruce. Like Rolling Thunder: The Air War in Vietnam, 1964-1975, Rowman & Littlefield, 2005. ISBN 0742543021, 9780742543027.