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ネアルコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ネアルコ
欧字表記 Nearco
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1935年1月24日
死没 1957年6月27日(22歳没)
Pharos
Nogara
母の父 Havresac
生国 イタリア王国の旗 イタリア王国
生産者 フェデリコ・テシオ
馬主 フェデリコ・テシオ
調教師 フェデリコ・テシオ(イタリア
競走成績
生涯成績 14戦14勝
獲得賞金 1,005,500リラ
1,000,000旧フラン
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ネアルコ (Nearco) はイタリア競走馬。1930年代後半に活躍した。リボーに並ぶフェデリコ・テシオの傑作といわれ、競走馬として14戦14勝の戦績を残し、種牡馬として1947年と1949年にイギリスアイルランドリーディングサイアーとなった。

馬名の由来は紀元前6世紀のギリシャの画家ネアルコス英語版(イタリア語名:ネアルコ)に因んだとされる[1][2]

体高は162.6センチメートル。直系子孫は世界のサラブレッドの約半数を占めるまでに発展している。

生涯

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誕生

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ネアルコは1935年1月、母のノガラが交配のために訪れていたイタリアの牧場で生まれた[3]

競走馬時代

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ネアルコは1937年6月に競走馬としてデビューすると、同年11月にかけて伊グランクリテリウムを含め7連勝し、この年のイタリアにおける最優秀2歳馬に選出された。[4]

1938年も連勝は続き、パリオリ賞、デルビーイタリアーノ[5]を制しイタリアクラシック2冠を達成したほか、古馬を相手にイタリア最大のレースといわれるミラノ大賞典に出走した。

ミラノ大賞典優勝の時点でネアルコの戦績は13戦13勝というもので、テシオの元には世界中から購入の申込が殺到したがテシオはこれを断り、当時世界有数の国際レースであったフランスパリ大賞典に出走させた[4]

出走理由をテシオは語らず、 ドナテッロ が半馬身差で敗れた時のリベンジか、当時世界有数の国際レースと言われたパリ大賞典を勝てばネアルコの種牡馬としての価値が上がるからだとも、推測されている[4]

6月26日に開催したこのレースにはイギリスダービーステークス優勝馬ボワルセル、フランスのジョッケクルブ賞優勝馬シラ、フランスのディアヌ賞優勝馬フェリーなど英仏の有力馬が多数出走。

ネアルコはオッズ29:10と最も人気を集め、レースでは4コーナーで好位置についてから直線で差し切り、2着キャノットに1馬身半差、勝ち時計3分12秒22/25を記録して人気通りに優勝した[6]

種牡馬時代

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パリ大賞典の4日後、ネアルコはイギリスのブックメーカー兼競走馬生産者のマーチン・ベンソン[7]に6万ポンドで売却された。 この価格はサラブレッドの売却額としては当時の世界最高額であった[8]

トレード成立によってネアルコはイギリスへ渡り、以後レースに出走することなく種牡馬となり、ニューマーケットのビーチハウス牧場で供用された[8]

ネアルコの種付け料は400ギニー[9]と高額であったが、種付け申込を始めるとわずか2時間で向こう3年分の予約が埋まるほどの人気を集めた[10]

ベンソンはこの時点でネアルコの購入代金の半分は回収し、3年後の1942年春、1株1550ポンドのシンジケートを結成して自身は5株を所有したが、シンジケート株は値上がりして同年暮れには2200ポンドで株を求める広告が出され、その後1回の種付料が2200ポンドになる程の人気を得た[10]

産駒は初年度産駒のレディシビルナスルーラ1942年の2歳フリーハンデの首位と2位を占めてリーディング4位になる活躍を見せ、その後も二冠馬ニンバス、ダービーステークス優勝馬ダンテなどを輩出。

1947年1948年にイギリス・アイルランドのリーディングサイアーとなった[11]

ネアルコの産駒も多くが種牡馬として成功し、そのサイアーラインアメリカを中心に大きく発展していった[11]

現在に至るサラブレッドの血統の父方を辿ると、その多くはネアルコに辿りつく。

直系子孫のナスルーラノーザンダンサーは20世紀の最も成功した種牡馬であり、さらにロイヤルチャージャーの系統からは日本サンデーサイレンスオーストラリアサートリストラムといった名種牡馬が出ている。

ニックスブランドフォード [12]と次いでソラリオ [13]と良好で、ハイペリオンとの相性は良くなかった[14][15]

1957年、種付依頼30頭中23頭を終えた頃、体調が急変して近くの馬学研究所で検査を受けるも6月27日に死去[11]

評価

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  • 『A Century of Champions』は20世紀の競走馬38位と本馬を高く評価している。
  • 生産者のフェデリコ・テシオ自身は、ドルメロ牧場の私設血統書備考欄に直筆で記入しており、こう評していた[15]。「ネアルコ=美しい均整に完璧な馬格、偉大な資質を持つ。出走を命じられた14のレースを全勝。真の長距離馬とは言えないが、3000メートルで2勝。彼はこれらのレースに雄渾の力を絞り、鮮やかなスピードを出した事を特記する。」[16]種牡馬として本馬を使った形跡が無く、ダンテ(父ネアルコ)を用いてトゥールーズロートレックを生産しただけだった。

競走成績

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主な産駒

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血統

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上記の購入希望が殺到した要因として、イタリア産ではあるものの血統としてはサラブレッドの本場イギリスの人気血統セントサイモンの凝縮であることがあげれる。[17]

父ファロスはその父ファラリスのスプリンター適正とステイヤー牝馬の母の両特性を受け継ぎ、結果スピードとスタミナを兼ね備えた競走馬であり、種牡馬としてもリーディンクサイアーとなった。しかし、同じ牧場で種牡馬入りした全弟フェアウェイと競合を避ける為にフランスへ送られた。[18][16] ファロスは自身の彎膝をファラリスら産駒に伝える事が多かったが、ネアルコには伝わらなかった[16]

母ノガラはイタリアの1000ギニーと2000ギニー勝馬で競馬界の女傑と讃えられた[19]。 ネアルコの全兄弟は、テシオは事情が無い限り配合する種牡馬を毎年変えて全兄弟を生産しない様にしていたので居ない[19]。 初子を生んで1年不受胎の次にネアルコを生み、2年不受胎が続いた後にイタリアダービーを20馬身差で制したニコロデラルカを生んだ[19]。 他の勝馬にはニコラウス、イタリアオークス馬ネルヴェサ、2歳時不敗のナウチード、ナカムロを生んでいる[20]

母母キャットニップの競走成績は冴えなかったが、ネアルコの生産者でもあるフェデリコ・テシオ1915年のニューマーケットのセリで75ギニー[21]で購入した[22]。 購入理由を自分は幸運だったからと多くを語っておらず、推測されている。[23]。テシオがキャットニップの父スペアミントのイギリスダービーとパリ大賞典を見て「自分の知る最高の名馬だ」と親しい人物に語る程に惚れ込んだからとも[23]1905年にニューマーケットのセリで購入したアメリカ産の10歳牝馬が、後に1909年のミラノ大賞典勝馬フィデアを生み、テシオの初クラシック制覇に貢献した事で、テシオがアメリカ産馬を気に入り、アメリカ血統の牝馬を探してたからだとも。[23]

3代母シボラはアメリカ産馬。競走馬としてはイギリス1000ギニー1着とオークス2着[22]

血統表

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ネアルコ血統ファラリス系 / St.Simon4.5×4.5.7=19.53%) (血統表の出典)

Pharos
1920 鹿毛 イギリス
父の父
Phalaris
1913 黒鹿毛 イギリス
Polymerus Cyllene
Maid Marian
Bromus Sainfoin
Cheery
父の母
Scapa Flow
1914 栗毛 イギリス
Chaucer St.Simon
Canterbury Pilgrim
Anchora Love Wisely
Elyholme

Nogara
1928 鹿毛 イタリア
Havresac
1915 黒鹿毛 フランス
Rabelais St.Simon
Satirical
Hors Concours Ajax
Simona
母の母
Catnip
1910 鹿毛 アイルランド
Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Sibola英語版 The Sailor Prince
Saluda F-No.4-r


脚注

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  1. ^ 原田俊治 1970, p. 205.
  2. ^ 吉沢譲治 2001, pp. 71–72.
  3. ^ 原田俊治 1970, p. 194.
  4. ^ a b c 原田俊治 1970, p. 195.
  5. ^ 着差は測定不能の大差。
  6. ^ 原田俊治 1970, p. 196.
  7. ^ 当時まだ普及していなかった電話を使って、電報を使って申し込みをした他の依頼者に先んじたという。
  8. ^ a b 原田俊治 1970, p. 197.
  9. ^ 同年のバーラムソラリオの500ギニーに次ぐ、同額にハイペリオンやファアウェイ。かつてリーディングサイアだったゲインズバラは高齢もあって198ギニー。
  10. ^ a b 原田俊治 1970, p. 197-198.
  11. ^ a b c 原田俊治 1970, p. 199.
  12. ^ ナスルーラ、マサカ、ニーシャムベルなど。
  13. ^ ロイヤルチャージャーやテッサジリアンなど。
  14. ^ アイルランドオークス馬のヌーリーが居るくらい。
  15. ^ a b 原田俊治 1970, p. 200.
  16. ^ a b c 原田俊治 1970, p. 204.
  17. ^ 『新版 競馬の血統学』NHK出版、2012年4月10日、73-74頁。 
  18. ^ 『新版 競馬の血統学』NHK出版、2012年4月10日、73-74頁。 
  19. ^ a b c 原田俊治 1970, p. 203.
  20. ^ 原田俊治 1970, p. 203-204.
  21. ^ 競走成績以外に第一次世界大戦、小柄で見栄えのしない馬体やイギリスの生産者に不人気のアメリカ馬だった事でこの安値になっている。
  22. ^ a b 原田俊治 1970, p. 201.
  23. ^ a b c 原田俊治 1970, p. 202.

参考文献

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  • 原田俊治『世界の名馬―サイトサイモンからケルソまで』サラブレッド血統センター、1970年8月。 
  • 吉沢譲治『競馬の血統学 サラブレッドの進化と限界』日本放送出版協会、2001年10月15日。ISBN 9784140841419 

外部リンク

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