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テュロス (バーレーン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
14世紀後半から15世紀前半にかけて製作された、プトレマイオス地理学』の古代ギリシア語写本(大英図書館蔵)に収められたアジア第6図のうち、アラビア半島東部の図。上部のペルシア湾(Περσικός Κόλπος)の中に“Τύλος”という名のが描かれている[1]

テュロス[2][3]あるいはティロス[4]古代ギリシャ語: Τύλος, ラテン文字転写: Tylos)は、古代ギリシア語におけるバーレーン島の名称である[3]アレクサンドロス大王の東征以降、様々なギリシア語文献に登場する[5]バーレーン考古学の時代区分においては、テュロスの名称にちなんだタイロス時代という呼び方が定着している[3]

歴史

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テュロスの名は、アレクサンドロス大王の東征以降に、ギリシア語古典文献に登場し、その始まりはタソスのアンドロステネス英語版といわれる[6]。テュロスの由来は、アッカド語の “Tilmun” あるいはシュメール語の “Dilmun” とされる[7][5]ヘロドトスストラボンによれば、フェニキア人が移住して祖となる都市(テュロス)と同じ名前を冠したという伝説がギリシアにはあるが、実際には民族が異なるとみられる[8][9]

インド遠征後バビロンに戻ったアレクサンドロスは、3隻の30人橈船ペルシア湾紅海の沿岸の調査隊として派遣[10]。そのうち、ペラのアルキアス英語版率いる1隻がテュロスまで到達、アンドロステネス率いる1隻もテュロスを訪れた[10][5]。調査隊は、この地の地理、民族、植物などについて多くの情報を収集し、その成果はエラトステネステオプラストス、ストラボン、大プリニウス、アッリアノスらの著作に引用された[5]アッリアノスの『東征記』には、次のように記されている。

アレクサンドロス〕が報告を受けたところでは、エウプラテス川河口近く、海中にふたつのがあるということだった。〔中略〕もう一方の島はエウプラテス川の河口から、追風に乗った船にしておよそ一昼夜ほどの距離があるという。テュロスというのがその島の名前で島は大きく、大方は荒れ地でもなければ樹木に蔽われてもいず、栽培された果物のたぐいやその他季節のありとあらゆる実りを産するという。 — フラウィウス・アッリアノス 、『アレクサンドロス東征記』第7巻20章3-6節[10]

アレクサンドロス大王の死後テュロスは、アレクサンドロスの帝国のディアドコイアジアを支配したセレウコス朝の勢力下にあったとされる[6][11]ポリュビオスは、セレウコス朝のアンティオコス3世が東方遠征に際しテュロスを訪れたことを記しており、アンティオコス3世がこの地を支配下に置こうとしたものとみられる[12][6][5][13]。また、バーレーン要塞で発見された碑文からは、セレウコス朝がテュロスの権益を持っていたことが読み取れる[8]紀元前3世紀頃の遺物が示す、文化におけるギリシア的特徴も、テュロスとセレウコス朝の密接な関係を示唆する[8][14]

セレウコス朝の権威が衰えると、セレウコス朝からエリュトゥラー海の太守に任じられ、後に自立したカラケネ建国王ヒュスパオシネス英語版がテュロスを支配下に置いた[5][11][注 1]。バーレーンで発見された、紀元前120年代のものとみられるギリシア語碑文には、ヒュスパオシネス王と王妃の名において、テュロスと島々のストラテゴス・ケピソドロスが、ディオスクーロイの神殿を寄進したことが記されている[6][8][5][11]。この碑文から、テュロスはカラケネ王国の管轄で、王の全権を任された高官が統治する行政区が設けられていたと考えられる[11][5]

パルミラから出土した、西暦131年の紀年がある碑文には、パルミラとカラケネの交易に活躍したパルミラ人ヤルハイが、カラケネ王メレダト英語版のために、テュロスの太守を務めたことが記されており、パルティアの支配下に入った後も、カラケネがテュロスの権益を持ち続けていたことがわかる[4][16][8][5][注 2]

4世紀末の中央アジア・中東の勢力図。

その後、3世紀にはアルダシール1世アラビア半島東部遠征によって、テュロスはサーサーン朝の支配下となる[5][17][注 3]5世紀になると、テュロスはキリスト教ネストリウス派の拠点となり、キリスト教社会が形成されていった[18][8]。サーサーン朝の末期には、住民のかなりの割合がキリスト教徒であったとみられる[8]

7世紀イスラム教が勃興し、イスラーム共同体の支配が及ぶと、それまでの文化に替わってイスラーム文化が浸透し、この地はバハレイン(バーレーン)と呼ばれるようになっていった[17][8][18][注 4]

特色

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真珠採取業はペルシア湾で特に古くからある産業で、バーレーンはその中心であった[19]。プリニウスの『博物誌』には、

沖合にテュロス島があって、真珠が多いことによってきわめて有名で、また同名の町がある。 — プリニウス、『博物誌』第6巻32・148[2]

の記述がみえ、古代から真珠採取が盛んであったことがうかがえる[20]

また、『博物誌』やテオプラストスの『植物誌』には、テュロス島にワタの木がたくさん生育し、できた綿から高価な布地も織られることや[21][22][23]チークカラマンダー英語版などの良質の木材を産することも記されている[24][25]

パルミラの碑文から読みとれるように、テュロスはペルシア湾からインド洋へ出る海上交易の重要な中継拠点であり、港湾都市として繁栄したと考えられる[4][13][11]

バーレーンの考古学時代

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タイロス時代の紀元前2世紀から3世紀に作られた食器類。

バーレーン考古学では、イスラーム時代以前のうち後半の時代を、テュロスの名にちなんでタイロス時代、ティロス期などと呼んでいる[3][13][4]。タイロス時代は概ね、アレクサンドロス大王の東征からイスラーム化まで、紀元前4世紀後半から7世紀までととらえられる[4][8]

タイロス時代は、バーレーンの古代文化をIからVまで5つの時代に区分したうちの5番目(V)に当たり、タイロス時代は更に、古墳などの発掘調査に基づく出土遺物の分析や層序学の観点から、VaからVeまで5つの時代に細分化される[14][8][3]。Va期は紀元前50年頃まで、Vb期は紀元前50年頃から西暦50年頃まで、Vc期は西暦50年頃から西暦150年頃まで、Vd期は西暦150年頃から西暦450年頃まで、Ve期は西暦450年頃から終わりまで、といった具合である[13][14][8]。Va期は更に、Va1期とVa2期の2つに細分化される可能性も指摘されている[14]

Va期は、出土する陶器の様式がアケメネス朝滅亡後に変化したことが示され、ギリシア軍やギリシアからの入植者によってもたらされた文化が急速に取り入れられたものと考えられる[14]。Vb期になると、ラギュノスやカンタロス[注 5]など新たな意匠が出現し、地中海世界の影響が増して、生活様式や習慣にもギリシア化した部分が多くなっている様子がみられる[14][8]埋葬習慣も変化して石棺が普及してゆき、Vc期になると漆喰で塗り固めた棺が登場する[14][13]。Vc期までは地中海世界の影響が強くなっていく様子が見出せるが、Vd期以降はそのつながりが現れなくなってゆき、副葬品が激減すると共に、漆喰で塗り固めた墓室を持つ集合墓地に置き換わっていったとみられる[8][13]

脚注

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注釈

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  1. ^ エリュトゥラー海は、字義的には紅海を意味するが、古代にはインド洋ペルシア湾、紅海をひっくるめた総称であった[15]
  2. ^ 実際の碑文の記述は、「Thilouans を治めた」というものだが、“Thilouans” は「テュロスの民」の意味であるとエルンスト・ヘルツフェルト英語版が指摘し、それが定説となっている[8]
  3. ^ アルダシール1世が破った、テュロスなどを統治する王はサナトルクといわれるが、これはアラビア東部の地名「ハッタ」(Hatta)と、サナトルクという王の実在が確認されているイラク北部の「ハトラ」(Hatra)を混同した可能性が指摘されている[13][5]
  4. ^ ただし、バハレインという名前は、イスラーム化以前のムアッラカートに既にその名がみられ、また、バハレイン以前にバーレーンの島々を指したとされるアワル英語版という名前も、用例は6世紀までさかのぼることができるという[18]
  5. ^ ラギュノスはギリシア風の徳利、カンタロスは酒神に捧げる広く張った把手付きの酒盃[26]

出典

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  1. ^ Burney MS 111”. Digitised Manuscripts. British Library. 2023年10月27日閲覧。
  2. ^ a b 中野定雄・中野里美・中野美代 訳『プリニウス博物誌』 I、雄山閣東京都千代田区〈縮刷第二〉、2021年9月25日、278頁。ISBN 978-4-639-02787-4 
  3. ^ a b c d e 後藤健「アラビア湾岸出土のメソポタミア系土器」(PDF)『西アジア考古学』第3巻、7-19頁、2002年http://jswaa.org/wp/wp-content/themes/jswaa/pdf/jwaa/03/JWAA_03_2002_007-019.pdf 
  4. ^ a b c d e 西藤清秀ほか「バハレーン、ティロス期の古墳の調査 —バハレーン、マカバ古墳群の発掘調査2016-2020」『第28回西アジア発掘調査報告会報告集』(PDF)日本西アジア考古学会、2020年、89-94頁http://jswaa.org/wp/wp-content/uploads/2021/03/AME28P089-094Saito.pdf 
  5. ^ a b c d e f g h i j k Potts, Daniel T. (2009-01). “The archaeology and early history of the Persian Gulf”. In Potter, Lawrence G.. The Persian Gulf in history. Palgrave Macmillan. pp. 27-56. ISBN 978-1-4039-7245-3 
  6. ^ a b c d Gatier, Pierre-Louis; Lombard, Pierre; Al-Sindi, Khalid M. (2002), “Greek Inscriptions from Bahrain”, Arabian Archaeology and Epigraphy 13 (2): 223-233, doi:10.1034/j.1600-0471.2002.130204.x, ISSN 0905-7196 
  7. ^ Potts, Daniel (2012), “Tylos”, in Hornblower, Simon; Spawforth, Antony; Eidinow, Esther, Oxford Classical Dictionary, Oxford: Oxford University Press, p. 1522, doi:10.1093/acrefore/9780199381135.013.6617, ISBN 9780199545568 
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n Andersen, Søren Fredslund; Salman, Mustafa Ibrahim (2006), “The Tylos burials in Bahrain”, Proceedings of the Seminar for Arabian Studies 36: 111-124, https://www.jstor.org/stable/41223886 
  9. ^ 織田, 武雄『古代地理学史の研究 —ギリシア時代—』柳原書店、京都市、1959年9月30日。doi:10.11501/2984953 
  10. ^ a b c 大牟田, 章 (1987-02-10), “フラウィウス・アッリアノス『アレクサンドロス東征記』第六巻および第七巻・訳”, 金沢大学文学部論集 史学科篇 (7): 1-94, ISSN 0285-6522, NCID AN00044488, http://hdl.handle.net/2297/5083 
  11. ^ a b c d e Kosmin, Paul (2013), “Rethinking the Hellenistic Gulf: The New Greek Inscription from Bahrain”, Journal of Hellenic Studies: 61-79, doi:10.1017/S0075426913000049 
  12. ^ 城江良和 訳『ポリュビオス 歴史3』京都大学学術出版会京都市〈西洋古典叢書〉、2011年10月15日、283-285頁。ISBN 978-4-87698-192-2 
  13. ^ a b c d e f g 平成23年度協力相手国調査 バハレーン王国調査報告書』(PDF)文化遺産国際協力コンソーシアム、東京都台東区、2012年12月https://www.jcic-heritage.jp/wp-content/uploads/2022/12/2012Report_Bahrain_jp.pdf 
  14. ^ a b c d e f g Andersen, Søren Fredslund (2002-11), “The Chronology of the earliest Tylos period on Bahrain”, Arabian Archaeology and Epigraphy 13 (2): 234-245, doi:10.1034/j.1600-0471.2002.130205.x, ISSN 0905-7196 
  15. ^ 村川 1946, p. 4.
  16. ^ 蔀勇造文献史料に見る南東アラビア (1) ササン朝支配期以前」『金沢大学考古学紀要』第24巻、20-38頁、1998年9月30日。ISSN 0919-2573https://hdl.handle.net/2297/1577 
  17. ^ a b 西藤清秀「バハレーン・マカバ古墳群の調査 2017-2019」(PDF)『青陵』第167号、1-6頁、2022年11月18日http://www.kashikoken.jp/under_construction/wp-content/uploads/2022/11/seiryo-167Web.pdf 
  18. ^ a b c Potts, D. T. (1985), “Review: Reflections on the History and Archaeology of Bahrain”, Journal of the American Oriental Society 105 (4): 675-710, doi:10.2307/602727 
  19. ^ 川崎, 寅雄『東アラビアの歴史と石油』吉川弘文館、東京都文京区、1967年10月1日、42-43頁。doi:10.11501/3013022 
  20. ^ 村川 1946, p. 176.
  21. ^ プリニウス 2021, pp. 542–543.
  22. ^ テオフラストス 1988, p. 171.
  23. ^ 村川 1946, p. 199.
  24. ^ プリニウス 2021, p. 698.
  25. ^ テオフラストス 1988, p. 216.
  26. ^ 橋本謙一「ギリシアの窯業」『窯業協會誌』第64巻、第732号、C478-C485頁、1956年12月1日。doi:10.2109/jcersj1950.64.732_C479 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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