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ジョアンナ・ヒファーナン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『白のシンフォニー第1番-白の少女』ヒファーナンをモデルにしたホイッスラーの絵画(ワシントン・ナショナル・ギャラリー(1862年))

ジョアンナ・ヒファーナン: Joanna Hiffernan/Heffernan1843年頃 - 1903年以降))は、19世紀に複数の有名な絵画にモデルとして描かれたアイルランド出身の女性。「ジョー (Jo)」という愛称で呼ばれ、アメリカ人画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの恋人だったが、フランス人画家ギュスターヴ・クールベとも関係があったのではないかといわれている。赤毛のヴィクトリア朝風の美女で、大きな議論を巻き起こしたクールベの『世界の起源』のモデルもヒファーナンだと考えられている。また、ヒファーナンはモデルとしてだけではなく、自身でも絵画を描いている[1]

前半生

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アイルランドに生まれたヒファーナンはローマ・カトリック信者だった。父パトリック・ヒファーナンはホイッスラーの友人でアメリカ人芸術家・作家のジョセフとエリザベスのペネル夫妻の書簡に名前が出てくる。それにはイギリスの小説家ウィリアム・メイクピース・サッカレーの『ペンデニス』に出てくる大酒のみのアイルランド人「キャプテン・コスティガン」のようだと書かれていた。また、ペネル夫妻はパトリックを「洗練されたカリグラフィーの教師」で、ホイッスラーを義理の息子であるかのように話していたとも書いている[2]

ヒファーナンの母カテリーナは1862年に44歳で死去しており、ブリジット・アグネスという妹がいた。1863年にホイッスラーに師事したイギリス人画家ウォルター・グリーヴス (en:Walter Greaves (artist)) はヒファーナンと親しく[3]、ヒファーナンにはハリーという名前の息子がいたと主張していたが、これを証明する公的な記録は一切発見されていない。

絵画のモデル

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ヒファーナンをモデルにクールベが描いた『美しきアイルランド女(ジョーの肖像)』クールベ(1866年)

ホイッスラーが最初にヒファーナンに出会ったのは1860年で、当時ヒファーナンはロンドンのラズボーン・プレイスのスタジオにいた[4]。その後6年にわたってホイッスラーと関係を持ち、その間にホイッスラーの有名になった絵画のモデルを数回務めた。人目を引く容姿とその個性は非常に印象的なもので、ホイッスラーの伝記作家や、友人たちが多くヒファーナンのことを書き残している。ペネル夫妻はヒファーナンのことを「彼女は美しいだけではなく、知性的で思いやりがある。ホイッスラーにつねに愛情を注ぎ、彼はその愛情なしには何もできないくらいだ」と書いた[5]

しかしながらホイッスラーの家族はヒファーナンを認めなかった。ヌードになるようなこともあった絵画モデルは、当時では売春婦と大差ない存在と見なされていたためである。しかしヒファーナンは友人たちに頼まれてモデルを務めたに過ぎず、ホイッスラーの家族が認めなかったのはヒファーナンの個人的問題ではなく、社会的階級差が原因だったのかも知れない[6]。1864年にホイッスラーの母がアメリカからロンドンを訪れたときに、同居していたヒファーナンは別の場所に泊まらざるを得なかった。また、ディジョン生まれの画家アルフォンス・ルグロ (en:Alphonse Legros) とホイッスラーとの1864年の諍いはヒファーナンが原因だったとも考えられている[1]

ヒファーナンがモデルではないかといわれるクールベの『世界の起源』(1866年)

1861年の夏にホイッスラーとともにフランスを訪れ、1861年冬から1862年にかけてバティニョール大通りのスタジオで『白のシンフォニー第1番-白の少女』のモデルを務めた。このフランス滞在中にホイッスラーの友人で同僚の画家の、後にヒファーナン自身がその作品でモデルとなるギュスターヴ・クールベと出会ったのかも知れない。

1863年にヒファーナンとホイッスラーは交霊会に参加するために、イギリス人画家・詩人だったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティチェルシーの邸宅を訪れ、その後1865年の夏と秋をフランスのトゥルーヴィル=シュル=メールで過ごしている。1866年にホイッスラーが7ヶ月間南米のバルパライソに滞在していたときにはヒファーナンに全権を与え[1]、家計の一切とホイッスラーの絵画作品を自由に売る許可を出した。

眠り』クールベ(1866年)

ホイッスラーが不在だったこのときにヒファーナンはパリを訪れ、ベッドに横たわった二人の裸の女性を描いたクールベの絵画『眠り』のモデルとなった。パリ滞在中のヒファーナンとクールベが関係をもっていた可能性もある[1]。クールベが1866年に描いた扇情的な絵画『世界の起源』もヒファーナンがモデルではないかとする見解があり、二人の関係に対する疑惑が後年のホイッスラーとクールベが仲違いする原因になった。後にヒファーナンとの関係が終わったホイッスラーはアメリカに戻ったが、ヒファーナンの好意に感謝する遺言を残している。

晩年

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ヒファーナンの名前が記された国勢調査用紙

ホイッスラーと破局したヒファーナンは、ホイッスラーがメイドのルイーザ・ファニー・ハンソンに産ませた息子[1]チャールズ・ジェイムズ・ホイッスラー・ハンソン(1870年 - 1935年)の養育に手を貸している[7]。ホイッスラーが新しい愛人モード・フランクリン (en:Maud Franklin) とヴェネツィアに滞在していた1880年に、ヒファーナンとチャールズはシスル・グローヴ・レーン5番でともに暮らしていた[1]。1881年のイギリス国勢調査記録に、ヒファーナン、妹ブリジッド、チャールズが、後にブリジットと結婚することになるシスル・グローヴ・レーン2番のチャールズ・シングルトンの家を訪れていたという記録が残っている[8]

1880年以降のヒファーナンの消息はほとんどわかっていない。クールベの妹ジュリエッタ・クールベ(1831年 - 1915年)が1882年12月18日の書簡で、「美しいアイルランド女性」がニースに住んでいると書いており、ここはヒファーナンがアンティークやクールベの絵画を売り払った場所であった。

アメリカの実業家で美術品収集家でもあったチャールズ・ラング・フリーア (en:Charles Lang Freer) は、1903年にホイッスラーの葬式で、喪服に身を包んで歩いていたヒファーナンに会っている[9]。フリーアの友人で印象派の画家たちのパトロンだったルイジーヌ・ハヴメイヤー (en:Louisine Havemeyer) は、このときの様子をフリーアから直接聞いており、後に次のように回想している[10]

「その女性がヴェールを持ち上げたときに彼女の顔を見た。白髪まじりだったが豊かな巻き毛の女性で、私はすぐに彼女がジョアンナだと分かった。クールベの『美しきアイルランド女』で豊かな髪で手に鏡を持って描かれていた、まさしくその女性だと。彼女は一時間近くもホイッスラーの棺桶のそばに立ちつくしていた。その場にいた私は旧友に向けた彼女の哀悼の想いに心を動かされた」

「モード(・フランクリン)も葬式に来ていた?」と私が尋ねると

「来ていた。同じ日の午後にパリから到着して、私がホイッスラーとの最後の対面をさせようと顔の覆いを取ったときにはとても動揺しているように見えた」

フリーアはしばらく物思いにふけっていた。

「ホイッスラーの人生はまさしくドラマで、彼女たちのような愛情深い女性と切り離せないものだった」

小説の登場人物

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フランス人作家クリスティーネ・オルバンヒファーナンが2000年に発表した小説『J’étais l’origine du monde(私が世界の起源だった)』ではヒファーナンが語り手として登場している。小説中ではヒファーナンはクールベの恋人で、有名な作品のモデルとなっている。ほかにベルナール・ティセードルの1996年の小説『Le roman de l’origine(起源の物語)』でも、主題は絵画そのものであるがヒファーナンが『世界の起源』のモデルだったとしている。

ジョアンナ・ヒファーナンを扱った文献や小説など

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  • Pennell, Elizabeth Robins and Pennell, Joseph: The Life of James McNeill Whistler, 2 vols, 1908, London and Philadelphia, Philadelphia : J.B. Lippincott company ; London : W. Heinemann
  • Pennell, Elizabeth Robins and Pennell, Joseph: The Whistler Journal, 1921, Philadelphia, J. B. Lippincott Company
  • Du Maurier, Daphne (Ed.): The Young George du Maurier: A Selection of his Letters, 1860-67, Garden City, NY, Doubleday, 1952
  • Ionides, Luke: Memories, 1925, Paris
  • Lechien, Isabelle Enaud: James Whistler, le peintre et le polémiste 1834–1903, Paris, ACR Édition, 1995 ISBN 2-86770-087-6
  • Teyssèdre, Bernard: Le roman de l’origine, Paris, Gallimard, 1996 ISBN 9782070784110
  • Guégan, Stéphane & Haddad, Michèle: L'ABCdaire de Courbet et le realisme, Paris, Flammarion, 1996 ISBN 978-2-08012-468-5
  • Orban, Christine: J’étais l’origine du monde, Paris, Albin Michel, 2000 ISBN 9782226116697
  • MacDonald, Margaret F. et al.: Whistler, Women and Fashion, 2003, New Haven and London, Yale University Press ISBN 9780300099065
  • Savatier, Thierry: L'Origine du monde, histoire d'un tableau de Gustave Courbet, Paris, Bartillat, 2006 ISBN 2-84100-377-9

出典・脚注

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  1. ^ a b c d e f [1] University of Glasgow Whistler Archive
  2. ^ Pennell, Elizabeth Robins, and Joseph Pennell, The Life of James McNeill Whistler, 2 vols, London and Philadelphia, (1908)
  3. ^ [2] Short biography of Walter Greaves
  4. ^ Ionides, Luke, 'Memories', Paris, 1925
  5. ^ Elizabeth Robins and Joseph Pennell, The Whistler Journal (Lippincott, Philadelphia, 1921), p. 121.
  6. ^ The Victorian Nude: Sexuality, Morality, and Art by Alison Smith Published by Manchester University Press, 1996 ISBN 0719044030 pg 29
  7. ^ Patricia de Montfort, "White Muslin: Joanna Hiffernan and the 1860s," in Whistler, Women, and Fashion (Frick Collection, New York, in association with Yale University Press, New Haven, 2003), p. 79.
  8. ^ 1881 Census of England, Public Records Office
  9. ^ 'Pretty women: Charles Lang Freer and the ideal of feminine beauty'.'Magazine Antiques' November 2006 by Susan A. Hobbs
  10. ^ Louisine W. Havemeyer, Sixteen to Sixty: Memoirs of a Collector (1961; reprint Ursus Press, New York, 1993), pp. 212-213.

外部リンク

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