ジュリー・ヘルドマン
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ジュリー・ヘルドマン | ||||
基本情報 | ||||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||
出身地 | 同・カリフォルニア州バークレー | |||
生年月日 | 1945年12月8日(79歳) | |||
身長 | 1.70 メートル | |||
利き手 | 右 | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1960年 | |||
引退年 | 1976年 | |||
生涯獲得賞金 | 値なし | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | ベスト4(1974) | |||
全仏 | ベスト4(1970) | |||
全英 | ベスト8(1969) | |||
全米 | ベスト4(1974) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | ベスト4(1974) | |||
全仏 | ベスト4(1968-70) | |||
全英 | ベスト4(1969・74) | |||
全米 | ベスト8(1968・69) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 5位(1969年) | |||
ジュリー・ヘルドマン(Julie Heldman, 1945年12月8日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州バークレー出身の元女子プロテニス選手。名門のテニス一家に生まれ育ち、1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカを代表する女子選手のひとりとして活動した。彼女はウィンブルドンを除く4大大会で女子シングルスのベスト4に入ったが、決勝戦には進出できず、故障のため早い年齢での現役引退を余儀なくされた。
来歴
[編集]母親のグラディス・ヘルドマン(1922年 - 2003年)は、1953年に雑誌『ワールド・テニス』を創刊したジャーナリストで、女子テニス協会のWTAツアーの創設に大きく貢献し、(選手ではない)「ジャーナリスト」部門で国際テニス殿堂入りした人物である。父親のジュリアスは、かつての全米選手権ジュニア・チャンピオンであり、グラディスは夫の影響でテニス振興活動に熱中し始めたという。ユダヤ系である[1][2][3]。
ジュリーはそのような家庭環境の中で、姉のキャリーとともに早くからテニスに親しみ、1960年から全米選手権に出場し始めた。1966年、ヘルドマンは初めて全仏選手権のベスト8に入る。1968年のメキシコ五輪では、テニスの非公式競技が「公開競技」(Demonstration)と「エキシビション」(Exhibition)に分かれて実施された。当時はまだ「アマチュアテニス選手」であったヘルドマンは、このメキシコ五輪の非公式競技に参加し、「公開競技」で女子シングルス銅メダル・女子ダブルス銀メダル・混合ダブルス金メダル、「エキシビション」で女子シングルス銀メダル・女子ダブルス金メダルを獲得した。
ヘルドマンは1969年から「プロテニス選手」に転向し、この年に全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープンの3大会連続でベスト8に進出し、世界ランキングで自己最高の「5位」に入った。この頃、女子テニス界はシステムの転換点を迎え、9人の女子プロ選手たちが全米テニス協会(USTA)を離脱して、テキサス州ヒューストンに本拠を置く「バージニア・スリムズ・サーキット」というプロテニスツアーに参加を決定した。ジュリーはビリー・ジーン・キング夫人、ロージー・カザルス、ナンシー・リッチー、ジュディ・テガート・ドールトン、ケリー・メルビル、クリスティ・ピジョン、ヴァレリー・ジーゲンフス、ピーチズ・バルトコビッツと並んで「ヒューストンの9人」(Houston Nine)と呼ばれ、ジュリーの母親グラディスが「バージニア・スリムズ・サーキット」を全面的に支援した。このサーキットは商業的な成功を収め、こうして現在のような女子プロテニスツアーの原型が据えられた。ヘルドマンはその後、1970年全仏オープンで初の準決勝に進出したが、ここではマーガレット・コート夫人に 0-6, 2-6 で完敗した。
4年後の1974年、ヘルドマンは全豪オープンと全米オープンの2大会で準決勝に進出した。キャリアで唯一の出場となった全豪オープンでは、当時19歳になったばかりのクリス・エバートに 2-6, 3-6 で敗れ、全米オープンではビリー・ジーン・キング夫人に 6-2, 3-6, 1-6 で逆転負けした。キャリアを通じて3度の4大大会女子シングルス準決勝進出があったが、ヘルドマンはとうとう決勝戦に手が届かなかった。1975年は全仏オープン1回戦・全米オープン2回戦敗退に終わったヘルドマンは、この年に「バージニア・スリムズ・サーキット」で最後のシーズンを戦った後、故障のため1976年に現役を引退した。引退後は母親の影響もあり、テレビ解説者として多方面の活躍を続けてきた。その間、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で法学を学んだこともある。ジュリー・ヘルドマンは2001年に「国際ユダヤ人スポーツ殿堂」入りを果たしたが、2年後に母親のグラディスを亡くした。
脚注
[編集]- ^ Riess, Steven A. (February 14, 1998). “Sports and the American Jew”. Syracuse University Press. February 14, 2019閲覧。
- ^ Goldman, David J. (September 1, 2013). “Jewish Sports Stars (2nd Revised Edition): Athletic Heroes Past and Present”. Kar-Ben. February 14, 2019閲覧。
- ^ “Encyclopedia of American Jewish History”. ABC-CLIO (February 14, 2019). February 14, 2019閲覧。
参考文献
[編集]- Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
- Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3 [4大大会シングルス成績]