コンテンツにスキップ

シャルマ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヤズルカヤの岩の神殿の小回廊Bにある、神シャルマと、少年の姿の王トゥトハリヤを描いている岩壁の浮き彫り。紀元前1250年-1220年頃のものと推定されている。

シャルマ[1]サルマとも。Šarruma、: Sharruma)は、フルリ人の神話を起源としヒッタイト神話にも取り込まれている[2]。山の神[3]、牡牛の神[4]とされる。 嵐の神テシュブ英語版[3]と女神ヘバト英語版の息子[4]である。

信仰

[編集]

紀元前2千年紀の初め頃から後半にかけてメソポタミア北部を中心に勢力を広げていたフルリ人が信仰していた神々は、地元の旧来の神々としばしば習合していった。ヒッタイト王国では、それまでに多くの民族の神々を受け入れていたが、フルリ人の神々が伝わってくるとそのまま受容していった。新王国時代のヒッタイトでは国家を守護する神々がフルリ人の信仰に由来する神々とされた。首都ハットゥサ(現在のボアズキョイ)にほど近い岩山には、紀元前13世紀ヒッタイトの王トゥトハリヤ4世が築かせた、ヤズルカヤと呼ばれる岩の神殿があるが、神殿の壁にはテシュブやシャルマといったフルリ由来の神々の浮き彫りがつくられている[5]

スッピルリウマ1世[注 1]の治世以降、シャルマはヒッタイトの国家神のうちの1柱とされた。その後、トゥトハリヤ4世[注 2]はシャルマを自身の個人神とした[6][注 3]。ヤズルカヤの岩の神殿には、少年の姿のシャルマが母神ヘバトと共に描かれた浮き彫りの他に、少年の姿をしたトゥトハリヤ4世が力のある大人の姿のシャルマに肩を抱かれている様子を描いた浮き彫りもつくられており[8]、そこではトゥトハリヤ4世自身が神格化されている[9]

神話

[編集]

研究者によっては、シャルマは女神イナラ英語版の兄弟でもあるとされる。シャルマはしばしば、またはに乗り、斧(ラブリュスを参照)を携えた姿で表現される。トルコアンカラにあるアナトリア文明博物館英語版で展示されている、マラティヤで見つかったイルルヤンカシュの浮き彫り(紀元前1050年 - 850年頃のものと推定)においては、シャルマは父の背後に描かれている。シャルマの妻は、竜のイルルヤンカシュの娘である[10]

嵐の神が竜のイルルヤンカシュを殺す場面。嵐の神の背後には彼の息子シャルマがいる。蛇の捩れている胴体は、人影が一緒に滑り込んだ起伏する線で表現されている。(アナトリア文明博物館、トルコ・アンカラ)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ スッピルリウマ1世(シュッピルリウマ1世)は在位紀元前1355年頃 - 紀元前1320年頃。
  2. ^ トゥトハリヤ4世(トゥドハリヤ4世)は在位紀元前1236年 -紀元前1220年
  3. ^ 都市国家を守護する都市神と異なり、自分だけ(個人)を守護する神[7]

出典

[編集]
  1. ^ 『神の文化史事典』、『古代メソポタミアの神々 世界最古の「王と神の饗宴」』で確認した表記。
  2. ^ 岡田 2000, p. 159.
  3. ^ a b 吉田 2013a
  4. ^ a b 吉田 2013b
  5. ^ 岡田 2000, pp.156-166.
  6. ^ 岡田 & 小林 2000, p. 250.
  7. ^ 小林 2000, pp. 61-62.
  8. ^ 岡田 2000, pp. 166-167.
  9. ^ 岡田 2000, p. 158.
  10. ^ Porzig 1930, pp. 379–86.

参考文献

[編集]
  • 岡田明子、小林登志子『古代メソポタミアの神々 世界最古の「王と神の饗宴」』三笠宮崇仁監修、集英社、2000年12月。ISBN 978-4-08-781180-3 
    • (岡田 2000)岡田明子「VII章 メソポタミア周辺の神々 5 ミタンニ王国とヒッタイト王国の神々」
    • (小林 2000)小林登志子「III章 シュメルの神々 3 個人神『彼の神』」
    • (岡田 & 小林 2000)「古代メソポタミアの神々一覧」
  • 松村一男、平藤喜久子、山田仁史 編『神の文化史事典』白水社、2013年2月。ISBN 978-4-560-08265-2 
    • (吉田 2013a)吉田大輔「テシュブ」pp. 339-340.
    • (吉田 2013b)吉田大輔「ヘバト」p. 475.

※以下は翻訳元の英語版記事での参考文献であるが、翻訳にあたり直接参照していない。

  • (Porzig 1930)Porzig, W. "Illuyankas und Typhon", Kleinasiatische Forschung I.3 (1930) pp. 379–86.