アトス (ダルタニャン物語)
アトス(Athos, 1595年頃 - 1661年)は、アレクサンドル・デュマ・ペールの歴史小説『ダルタニャン物語』に登場する銃士の一人。三銃士の最年長で、リーダー的存在。ダルタニャンはアトスと言う人物には他の銃士たちとはやや異なる、一種の尊敬の念を抱いている。作中では若い頃と老齢になってからの変化がかなり大きい。「アトス」というのは世を忍ぶための偽名。この名前はフランス人から見ても奇妙なものらしく、「私の名前はアトスだ」と言われ、リシュリュー枢機卿から「それは山の名前だ、ふざけているのか」と怒られるシーンが見られる。
概要
[編集]年齢は『三銃士』の時点で推定30歳頃。『二十年後』の時点(1648年)で49歳と自己申告していた[1]。年齢はダルタニャンより10歳ほど年上で、機嫌のいい時にはダルタニャンに対し「なあ、せがれよ」と呼びかけることもあった。
無口で暗い印象を受けるが、人格としてはどこか王族の気風を漂わせており、只者ではない印象を相手に与える。また、若い頃は大酒のみで博打好きという欠点もあったが、人格の高潔さが強調されており、誠実な人柄。人間関係に打算を持ち出しがちなダルタニャンは、誠実なアトスに対し引け目を感じ、アトスだけは騙したりできない、と感じている。
若い頃、女性関係で失敗。以後はそのトラウマから一切女性を近づけることはなかった。よほどその失敗が身にしみたのか、恋愛相談にやってきたダルタニャンに対し、「やめておけ」と的外れな助言をしたり、息子のラウルと仲が良いルイズ(当時7歳)を危険視するなどしている。作中で描写があった限り、最初の妻を除けばラウルの母親と一夜の関係をもったのみ。
この息子、ラウルの誕生後、「子供をしつけるには、口で言って聞かせるより行動で示すのが一番だ」と考え、きっぱりと博打をやめ、酒もたしなむ程度に抑えるようになった。もともと、ダルタニャン、プランシュなどは「アトスは立派な人物だが、酒でいつか身を滅ぼすだろう」と予想していたため、この変化には大喜びしている。
政治的には、基本的にフランス王家に忠誠を誓う立場。フロンドの乱に参加したのも、ルイ14世を傀儡として操るマザランへの反感のため。また、若い頃は熱烈にイギリスを嫌っており、「イギリス野郎の金なんているものか!」と言って決闘で得たイギリス人の金を捨てたり、バッキンガム公爵からもらった馬を博打で擦っていた。しかし、1648年、49歳のころ、イギリスに渡った際に、清教徒革命で徐々に考えが変わり始め、親英的になった。そして、チャールズ1世からはガーター勲章を、チャールズ2世からは金羊毛勲章を与えられるという名誉を得ている。このどちらの勲章とも、一国の国王レベルの人物がようやくあたえられるほど。
剣の腕前が高く、左右どちらの腕でも剣を使うことができるという特技がある。また、すでに60歳近い1660年のイギリス遠征では従者のグリモーと2人で篭城し、28人の兵士のうち8人を死傷させる活躍を披露している。
本名について
[編集]作中では完全に伏せられており、「アトス」、あるいは「ラ・フェール伯爵」としてしか紹介されることはない。しかし、のちにデュマが描いた演劇『若きころの銃士たち』で登場するミレディー(三銃士に登場する、アトスの元恋人)が、作中でラ・フェール子爵のことを「オリヴィエ」と呼んでいるシーンが見られる。そのため、アトスの本名はオリヴィエではないのかと考えられている。
史実
[編集]モデルになった人物は、アルマン・ドゥ・シレーグ・ダトス・ドートヴィエイユ (1615年-1643年)。『ダルタニャン物語』とは15歳ほど若く生まれている。銃士隊長トレヴィルの親類で、そのつてをたどって銃士隊に入隊。軍人としてはとくに見るべき功績もなく、決闘さわぎを起こし死亡した。
派生作品など
[編集]三銃士のリーダー格のためか、主人公・ダルタニャンに次ぐ程度の活躍をする役回りを担当するポジションにいることが多い。
映画仮面の男などでは、ルイ14世の双子の弟でバスチーユに監禁されていたフィリップを亡き息子と重ね合わせ、またフィリップから父のように慕われていた。
脚注
[編集]- ^ デュマの小説でこの手の数字に関する情報は整合性が取れないことも多いので、あくまで目安。
関連項目
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